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汝、その薔薇の名

1.原因と理由


 青い空を泳ぐ白い雲が途切れ、緑の高原にぶつかり、すがすがしい風が湖の雫を飛ばして湖岸に繋がれている渡し舟を揺らす。
 山並みと湖の狭間に建つ家並みは、段ごとに連なり自然の雄大な風景と一体となり、それはまるで絵画に治められた夢のような眺めだった。
 湖上からの眺めはまた一味違う。渡し舟に乗り、湖に出れば街の中とは切り離されて静寂に包まれる。船から見上げれば、立ち去る事が困難に思えてくるほどの圧倒感である。
 見るもの心をぐっと惹きつける景観は、昔から何も変わっていない。
 民家の集まった街並みは、活気でにぎわう雰囲気が、どこかしこに見られ、広場はいつも人で溢れている。広場の中心には大噴水が置かれ、何時も瑞々しい水が湧き出ている。
 この溢れる水はエスマ川から引かれている。北の大山脈の水源からいくつも枝分かれして流れ出るエスマ川沿いでは、豊かな木々を背景にして野鳥がのんびりと行き交っていた。
 数多くの湖と連なる山々を従えて、ブルク城は王都アスタインを見下ろす高台の上に建っている。
 ヴィルバーンの王都アスタインを見下ろす大きな城は、堅固ながらも気品の漂う要塞都市の象徴として聳え、そのくすんだ赤は威風堂々としている。
 王都郊外からも一目で目に付くその姿は、古の神話に出てくる左右に羽を広げた炎の鳥のようで、圧巻だった。
 アスタインは要塞都市であり、岩塩の採掘や交易で発展してきた商業都市でもある。
 冷戦以前、敵国であったグリアスのクルワド五世に一度は占拠された事もある都市だったが、クルワド五世はこの土地で採取できる富に気づかなかったのである。
 反対にクルワド五世から都を奪還した英雄王リチャード一世はすぐさま着目したといっていい。
 それは数々の栄光に飾られた名君の功績の中でも一際華々しいものとなる。
 別名《白き黄金》とも呼ばれる塩は貴重品であり、大きな利益をもたらすものであったからだ。その権利はリチャード一世によって独占され、ひいてはヴィルバーンの国益となった。目の前にぶら下がっていた宝の山を素通りしてしまったグリアスは、さぞ歯噛みしたに違いない。
 ブルク城の外装は要塞としかいえないものだが、内部に入ればその印象はがらりと一転する。
 まさに絢爛豪華の一言に尽きるといってもいい。
 細やかな彫刻の施された内装に漆喰で飾られた無数の部屋に飾られた著名な画家の絵画や色彩のバランスが取れた調度品の数々、どれも溜息が漏れるほどの豪華さと華やかさである。
 勿論、かかった費用も特大の溜息ものであることは言うまでもない。まさにヴィルバーンの栄華をものがたっている。
 なんとも贅沢な城は、このヴィルバーンにおいて最も高貴な人の住まいであり、国王の生活空間だった。
 さらに国王がいるということは、ここがヴィルバーンの政治の中枢であり、諸侯、貴族がそろって参内し、外交において必要不可欠な要人たちを迎える城でもある。
 その城の国王の執務室に、ヴィルバーンの国王フォルデが机に向かって座っていた。
 闇を溶かしたような髪を無造作に手で撫で付けると、国王は目の前の机に置かれている書類を手際よく裁いていく。
 鍛えられた身体を持つ背の高い男だった。鷹のような目つきは鋭く、ぎらぎらとしている。その眼光で睨まれたらさぞ恐ろしいに違いない。
 事実、国王に杜撰な書類を届けようものなら官吏たちは、そろって居竦む破目になる。
 国王は整った顔立ちの美男子なのだが、その目つきが災いし、どこか陰湿な雰囲気を醸し出していた。
 室内には国王のほかに宰相のリコ・シュタインと侍従長であるムスカ・マイリーズが揃っていた。
 リコは白髪をきっちりとまとめて後ろへ流している。皺だらけの顔は長年王宮に勤めているだけあって、その苦労が染み付いたように一本一本が深い。
 宰相は国王が裁く書類の中でも急を要する物とそうでない物にせっせと分けていく。
 急を要するものは国王の机へとどんどん載せられていく。それを国王が裁き、書類を整理していくのは侍従長の仕事だ。
 今でこそブルク城の管理を一手に任されているムスカだったが、国王に見いだされる前は一介の侍従でしかなかった。昔は傲慢な貴族に扱き使われていた。雇用条件は理不尽なものだった。そこから引き抜かれた侍従はその恩に報いるだけの能力があった。
 雑務から事務まで何でもこなす有能な侍従長は、国王と官吏や領主たちのパイプ役でもある。
 三人は無言のまま手だけを動かして黙々と自分の仕事をしていたが、やがて、執務室の扉の向こうから声がかけられた。執務室の扉を警備している近衛だ。
 国王が短く返事をすると直ぐに扉が開き、一人の男が入ってきた。
 国王と同じぐらいの年の男だった。こちらも背が高い。しかも国王よりも大柄なので、迫力がある。
 威風堂々とした男の名はエドマンド・ウィンザーという。
 ヴィルバーンでも有数の大貴族であるウィンザー公爵家の当主である。
 国王は、睨んでいた書類から顔を上げてエドマンドを見た。エドマンドは国王の目の前を陣取ると、優雅に一礼した。
 大柄な身体にもかかわらず重たさを感じさせない俊敏な動きであり、ウィンザー公爵家の名に相応しい洗練された動きだった。
「陛下、エドマンド・ウィンザーただいま戻りました」
「ああ」
 無表情で頷いた国王の代わりに、宰相がにこやかに公爵を労らった。
「ウィンザー公、無事の帰還を喜ばしく思いますぞ。クッフィールドの様子はどうでしたかな」
「お気遣いありがとうございます宰相殿。クッフィールドは、変わらず安定していましたよ」
「そうですか、それは重畳。クッフィールドはグリアスとの国境でもありますからな。安定している事ほど喜ばしい事はありません」
 宰相は柔和に微笑んだ。
 宰相とウィンザー公が話をしている間も、国王は手を止めたりしなかった。その書類がひと段落ついたという頃に、ウィンザー公が「ところで…」と国王に話しかけた。
「陛下、折り入ってお話があるのですが」
 そこでやっと国王は手を止めて、侍従長を一瞥した。侍従長は心得たように分けた書類を持って席を立ち、国王に一礼すると静々と執務室を後にした。
 扉が閉まると同時にウィンザー公はがらりと雰囲気を変えた。今までは畏まっていたのだが、一気に力を抜いて砕け腰である。なんとも言えない様な顔をして国王を見た。
「陛下、仕事熱心なのもいいですが、少しは限度というものを考えてはいかがか」
「限度なら心得ている」
「そうは見えないから忠告してるんです」
 ウィンザー公は疲れたように溜息をついた。見れば、宰相も溜息をついている。
 言っても無駄です。目がそう語っていた。
 ウィンザー公は視線だけの助言に従い、それ以上は何も言わずに休憩用に置かれている天鵞絨の長椅子に転がった。国王の執務室に置かれているものだけあって、座り心地は最高級だ。国王はそんな公爵に眉を顰めもせず、こちらもだらしなく椅子にもたれかかった。実に柄の悪い主従だが、指摘する者はいなかった。
 常識人であるはずの宰相はのほほんと二人を見ている。
「それで? 何か分かったのか」
 ウィンザー公は、力なく首を振った。
「マーガレッタ王女の行方は分かりましたが、肝心なことは何も」
 国王は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「リチャード王子も最後にとんだ事をしてくれたものだ。いや、ウィリアード一世がというべきか」
 宰相が控えめに呟いた。
「陛下、お父上を悪く言っては…」
「一度も会わずに死んだ老体を父とは呼べんな。第一、やっと安定してきたこのヴィルバーンに新たな火種を残していったのはどこの誰だ?」
 現国王フォルデは先王ウィリアード一世を嫌っている。それは周知の事実だった。
 隠すことのない皮肉をぶつけられ黙り込んでしまった宰相に代わってウィンザー公が身を乗り出した。
「クッフィールドのミドハム城で、マーガレッタ王女がご出産されたのは間違いないようです。当時出産を手伝った侍女も何人か証言していますし、立ち会った産婆も見つけました」
 最後の方は声を潜めてウィンザー公は、困ったように眉を寄せた。
「出産後のマーガレッタ王女は、肥立ちが思わしくなく、残念ながらお亡くなりになったようです。元々体が弱かったようで、その所為もあったそうです。ですからマーガレッタ王女の消息はミドハム城で終わりなのですが、肝心のその赤子の行方もミドハム城で途切れているのです」
「解せんな」
「はい。私もそう思い調べたのですが、どうにも足取りが掴めませんでした。ミドハム城から、ぷつりと消えているんです」
 ウィンザー公は「お手上げです」といって両手を広げて肩を竦めた。
「しかし生まれたばかりの赤子が自分で歩いて消えるわけがない」
 椅子にもたれていた国王は、きっぱりと言った。
 国王の塗りたくったような藍の色彩をもつ瞳は深い陰影を落としている。
「はいその通りです。これはもう、誰かがミドハム城から赤子を連れ出したと考えるべきです」
「そうだな、しかも誰にも気づかれずに隠密にな」
 嘲るように国王が呟いた。
「王族の誘拐は重罪だが、それを手引きしたのが王座に座っていたウィリアード一世ではな。話にもならん」
 国王は忌々しいといわんばかりにむっつりと黙り込み、宰相は鉛を呑んだような、なんとも奇妙に顔を歪めた。彼らは今、非常に厄介な問題を抱えていた。
 非常に繊細かつ微妙な問題だった為、ウィンザー公は態々、視察という名目を装ってまでクッフィールドまで行ってきたのだ。
 やれやれと言わんばかりにウィンザー公は話し出した。
「マーガレッタ王女が出産し、お亡くなりになるまで赤子の面倒を見ていた者たち全員が口を揃えて証言しております。『眼は半開きでしたがあの色は一度見たら忘れられるものではありません。燃え盛る炎のような珍しい紅の瞳を持った赤子の、その胸元には赤い薔薇のような痣が浮かんでいました』とね」
「それは手がかりになるかもしれませんぞ赤眼はとても珍しいですからな」
 ウィンザー公は「ふむ」と手で顎を撫でた。
「たしか魔力の結集化…でしたか? 金眼や赤眼といった瞳をもつ者は人ならざらぬ力を持つとか。なんでも神々の恩恵か精霊からの祝福だとも」
「ほほう、詳しいですな」
 驚いたように目を丸くする宰相にウィンザー公は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「昔、興味本位からスブール殿に聞いたことがあるのですよ」
「なるほど」
 得心いったように頷く宰相に国王は目を向けた。
「赤子が魔力を秘めているのならスブールに行方を捜させることはできないのか」
「スブール殿にですか? あの人を引っ張り出すのは一苦労ですよ陛下。私が話を聞くために何日ひっつきまわしたことか。最後には渋々教えてくれましたがね」
 国王は眉の先っぽを押しあげた。
「魔導師でなくともお前の押しの強さには根負けするだろうよ」
「とりあえず、お伺いを立ててみましょう。あの方とて国王に仕える臣下なのですからいざとなれば力を貸してくださるはず」
「あれはそういう誓いを立てているからな…」
 嘆息した国王の視界を黒い影がよぎった。
 ハッとして顔を上げればどこから入って来たのか――室内の窓はすべて閉まっている――小さな駒鳥が天井を旋回している。
 宰相とウィンザー公が驚いている目の前で、国王の正面へと飛来した鮮やかな橙色が美しい駒鳥はみるみるうちに姿を歪めると人の形を成していく。優雅に床へと降り立った時にはベールで顔を隠した小柄な人間となっていた。
 常識では考えられない不可思議な変化を目の当たりにした国王は眉を顰めて悪態をついた。
「随分と唐突な登場だなスブール」
「其が我が名を呼んだからだ」
 見えているのは口元と僅かな頬だけだが、その肌は蒼白く――年中城の地下に作られた研究所に閉じこもっているということを知らなければ病人と見間違うほどだ。
 ヴィルバーンの王国付き魔導師スブール・ラ・セスキーは裾の長いゆったりとしたローブの上から不思議な模様が描かれた薄く長い上着を着て、それを腰から垂らした絡み合う何本も紐で留めていた。
「訪問を受けたくなければ、意思をこめて我が名を呼ばぬことだ。我とて不本意だ。誓いゆえに引っ張られる」
 不満だと言わんばかりにぼそぼそと喋る魔導師に肩の力を抜いたウィンザー公が声をかけた。
「やあやあ、お久しぶりです」
「またそなたか。当分その面は見たくないと言い渡しておいたはずだがな」
「おお、その毒舌ぶりはまさしく我が国の魔導師殿。お元気そうでなによりです。私はもちろん元気ですよ」
 にこにこ笑みを浮かべながら大仰に喜びを表すウィンザー公にうんざりしたのかスプールは無視した。
「それで…、我が名を口に出したということは何か用があったのだろうな」
「ああ。手間が省けた。単刀直入に聞くが、お前の術で人を探すことはできるか?」
「人…」
 小さな呟きは怪訝そうな口調だ。
「我に人探しをしろと言うのか」
「そうだ。だが、ただの人ではない。魔力をもった人間だ」
「魔力を持って生まれる人間はとても少ない……誰だ」
「リチャード王子とグリアスのマーガレッタ王女との間に生まれた子供だ。赤眼の持ち主だそうだ。生きていれば十五、六の娘になっているはず」
「………」
 何かを考えるようにしばらく黙り込んだスプールだったが、唐突に口を開いた。
「それはおそらくチェルカローズだ」
 宰相が身を乗り出して意気込んだ。
「チェルカローズとは? スブール殿は何か知っているのですか?」
「どちらともいえない……しかし、十六年前に赤い星が出現した。その星は今も輝いている。力強く。あの日、精霊たちの祝福を授かった者が生を受けたことはすぐにわかった。ありとあらゆる精霊が騒ぎたて、歓喜に震えていたので、我のように力ある者ならば気がついたはずだ。だが、我が知っているのはその者の名だけだ。チェルカローズ…精霊に愛されし者」
 お互いに顔を見合わせる宰相とウィンザー公は困惑の表情を浮かべた。国王はもっとあからさまだった。
「眉唾ものだな」
「信じる信じないは好きにするがいい」
 感情の起伏がない淡々とした口調だった。
「確証はない。だが、我が師は誕生した子をチェルカローズと呼んでいた」
「先代の王国付き魔導師が?」
「そうだ。詳しく知りたいのなら我より師の方がよく知っているだろう。しかし、師をつかまえるのは難しいだろう」
 国王は苛立たしげな声でをあげた。
「我々はおまえの師を見つけたいわけではない。リチャード王子の子を見つけたいのだ」
「国王よ、残念だがそれは不可能だ」
「できないのか」
「人を探すのは簡単だ。しかし、それはただの人間の場合だけで、魔力をもつ者に近づくのは容易ではない。害悪から身を守るための技を知っている。我や我の同業者も同じこと」
「それは魔導師である場合のことだろう」
「そう。相手が魔導師の場合、相手の結界を突破することは可能だが、神々の《恩恵》や精霊の《祝福》を受けし者の場合は不可能なのだ。絶対的な力によって庇護されているから」
 鋭い視線で睨み上げられたが、スプールは静かに首を振った。
「やろうと思えばできる。しかし、結果はやる前からわかりきっている」
 見つけることは出来ない。スブールの無言の通告を受けて国王は舌打ちした。

 言うだけ言ってスブールがさっさと去った後に残された国王と宰相と公爵は頭を抱えた。
「そもそも、何故ウィリアード一世陛下はリチャード王子のご息女を隠されたのですかね。正式に発表なさればよかったのに」
 国王がじろりと目線をウィンザー公に定めた。鷹よりも鋭い視線に射抜かれウィンザー公は首をすくめた。
「これは私の考えなのですが…」と前打って宰相が話し始めた。
「おそらくグリアスとの関係を考慮したのではないでしょうか」
「といいますと、やはりマーガレッタ王女ですか」
 宰相は机の上で組んだ手で口元を隠しながら頷いた。
「グリアス国王の大勢いる娘の中でも、マーガレッタ王女は殊更大事にされていました。傲慢なグリアス国王も、マーガレッタ王女には砂糖菓子よりも甘いと揶揄されていたぐらいです。そんなマーガレッタ王女がグリアスを出奔し、一時騒然としたのを私は今でも覚えております。ウィリアード一世陛下にも、グリアス国王から質し状が届いたぐらいです。とんでもない事だと思いましたよ、国境を越える事は簡単には出来ません。甘やかされて育った王女にはとてもとても。勿論ウィリアード一世陛下は、丁重にお返事をなされました。あずかり知らぬ事だと」
「だがマーガレッタ王女はヴィルバーンにいた」
「はい陛下、その通りでございます。私も知ったときは肝が冷えました、お亡くなりになられたウィリアード一世陛下を問いただしたいと心底思いましたとも」
「マーガレッタ王女も考えたものだ。国境は簡単には越えられない、しかし越えてしまえばグリアスの目には絶対入らない。これ以上の隠れ場所はないな」
 くつくつと笑う国王を横目で見つつ、ウィンザー公は頷いた。
「確かに。グリアスから逃げてきたマーガレッタ王女を匿ったと知られれば、即刻戦争になりかねませんな。しかもマーガレッタ王女は、リチャード王子の子を身ごもってしまった。ますますもって知られるわけにいかんでしょうな」
「そうなのです。ウィリアード一世陛下が、何をお考えだったのかは私には考えもつかぬ事です。しかしグリアスと争う事は避けたいと考えていた事だけは確かなのです」
「なのにマーガレッタ王女を匿うとはな、本末転倒だ」
 国王の一刀両断な言葉にウィンザー公は大げさに肩を竦めた。宰相も深々と溜息をついた。二人とも「たしかに…」と内心で思っていたが、口には出さなかった。
 ウィンザー公が「そちらはどうでした?」と続けた。
「モンテナ公やアイク伯の一族たちに動きはありましたか?」
「いえ、ウィンザー公が出発されてから、特に動きには注意しておりましたが、なんとも、今も間諜を放ってはあるのですが…」
「そうですか」
「彼らがリチャード王子のご息女を担ぎ上げようとしているのは確かなのです。居場所さえ分かれば手の打ちようがあるのですが」
「未だに把握できないのでは、向こうも動けないでしょうね。いやはや、焦り捲くるモンテナ公やアイク伯の顔が目に浮かびますな」
「まったく忌々しい!」
 国王が指で机を叩く。国王の苛々が伝染したように一定の間隔を置いて音がたつ。
「今更リチャード王子の娘が出てきても、余計な混乱をおこすだけだ。悪くすれば五年前の二の舞だぞ」
 ウィンザー公が相槌を打つ。
「ですな。もっと言えば五年前以上に最悪ともいえます。リチャード王子の娘はマーガレッタ王女の娘でもある。百年戦争が始まる以前より関係が最悪である我らがヴィクトリア王家とグリアスのランカー王家の間に初めて生まれた方です。前代未聞の珍事ですよ」
「ウィンザー公、茶化さないで頂きたい。……しかし、一理あることも事実ですな、元を辿れば両王族はアヴィランド王家建国の始祖の血をその身に宿しております。ある意味では時代を経て袂を分けたものが一つに戻った事になる、なんとも因果なものですな」
 宰相がしみじみと言い終わる前に国王が盛大に舌打ちした。
「なるほどそう考えれば、リチャード王子の娘は純血の王女だな。卑しい血の混じった俺とは、大違いというわけか」
「陛下!」
 声を上げた宰相を一瞥し、国王は唸った。
「五年間の内乱を収めたんだ誰だ?」
「貴方様です。陛下」
「そうだ。俺が、、、収めたんだ。馬鹿な王族や貴族の首をたたっ斬ってな」
 冷ややかな口調だった。
 何の熱もこもっていない恐ろしいぐらいに淡々としたものだ。
 宰相は、苦悩するように細々と言った。
「グリアスとは一進一退の関係でございます。隙を見せれば直ぐに足元を崩されます。五年前、分かっているはずなのにそれでも内乱がおきました。一部の私利私欲にかられた者の所為で」
「そうだ。やっとのことでグリアスと友好的な関係を築いてきた、それがたった十三年しかもちませんでした、ではあまりにもお粗末だ。だがな、百年も続いた最悪の関係をそんな簡単に修復できるわけがない。グリアスの国王は馬鹿じゃない。むしろ権力に貪欲な人種だ。そんな人間が、こちらの国内が混乱している時を見逃すわけがない」
「はい、まったくその通りでございます」
「馬鹿な身内たちがおこした内乱の最中を狙われたら、一溜まりもない。そんなことだけは避けたい、そう言って俺を引っ張り出したのは何処の誰だ?」
「私めです、陛下。そして、それは間違っていなかった。貴方様は見事収めて下さった」
 宰相は、胸を張り国王を見た。
 国王はそんな宰相を鼻であしらい、目を吊り上げた。
「ならば俺の前で下らぬ事を抜かすな」
 そう言い放ち、国王は勢いよく椅子から立ち上がり、執務室を出て行った。
 扉の向こうで近衛たちの慌てた声が聞こえてきて、宰相は肩を落として項垂れた。
 そんな宰相を気の毒そうに見て、ウィンザー公は声をかけた。
「怒らせてしまいましたね」
「はい、迂闊でございました。あの様子では怒りが冷めるまでに時間がかかります。必然的に、執務が滞ります」
「…………」
 現在この国で、国王の怒りほど恐ろしいものはないと言われているのだが、あれだけの殺気を向けられても平然として、真面目に執務の心配をする老年の宰相は図太かった。
 しかしこれぐらい出なければ王宮では無論のこと、あの国王とやっていけない。
 ごほん、と咳払いでごまかしウィンザー公は苦笑する。
「あの方は、ご自分の出生に強烈な劣等感をお持ちですからね。仕方がありません。まあ簡単に言えば拗ねているだけですよ。そうすることでしか感情を発散できないんでしょうな。不器用な方ですから」
 宰相が顔を歪めた。
「出生だけではないでしょう。私がもっと早くお迎えに上がれば良かったのです。愚かな貴族たちよりも早く」
「ご自分をあまり責めますな。幼い頃の感情的経験の記憶というものは、総じて厄介なものなのです。私にも覚えがありますよ、あの方の場合はそれが元でかなり捻くれてしまっていますがね」
 態と茶目っ気をだして言うウィンザー公に宰相も僅かに微笑んだ。
「もう少しリチャード王子のご息女について話を詰めておきたかったのですが、今日はもう無理ですな」
「陛下の代わりで宜しければ聞かせていただけますか? 貴方の事です、何事かお考えがあるのでしょう?」
「ウィンザー公にはかないませんな、無論手抜かりはありません。リチャード王子のご息女は我が国だけでなくグリアスにも影響する要因なのです、その存在が分かった以上放ってはおけません。何としてでもこちらで保護すべきです。その為には陛下にも働いていただきます」
「あの気難しい方が動きますかな」
「あの方は武芸だけではなく頭も宜しいのです。何が自分にとって利益になり、不利益となるか、ちゃんと分かっていらっしゃいます」
「そうですな。そうでなければ王などやってられません」
 面白そうにウィンザー公がにんまりと笑う。宰相は敢えてその問いを無視し、ウィンザー公に詳しい事を尋ねつつ取り出した書類に書き込んだ。
「マーガレッタ王女が出産した年から逆算してご息女の年を割り出しました。先ほど陛下がスブール殿に伝えたように、おそらく今年で十六歳になっているはずです」
「ふむ、結婚できる年ですな」
「そうですな、結婚していない事を祈るばかりです。これ以上、事態をややこしくしたくありません」
 宰相は無情にもきっぱりと言い放った。
「クッフィールドから手がかりが出ないのなら考え方を変えれば宜しい。十六年前に王宮やウィリアード一世陛下の周りで何か変わったことはなかったか、そちらに目を向けるのです」
「十六年前と絞るのはどうでしょう。もう少し幅を広げて考えてみては?」
「むう、そうですな」
「その頃は私も父に連れられて王宮に参内するようになった頃ですな」
 ウィンザー公は腕を組んで天井を見つつ呟いた。
「当時、王宮で一番の話題といえばヨーク公の浮気騒動やファルツ伯爵の突然の隠居宣言ぐらいですか」
 どんどん思い出していくウィンザー公に、それまで黙って考え込んでいた宰相が頭を上げた。
「…そういえば少々時間軸は少しずれますが、ウィリアード一世陛下の寵臣だったアーノル卿が突然コルスタンへと左遷されもしましたな」
 きょとんとしたウィンザー公だったが、直ぐに目をきらりと輝かせた。
 宰相の言いたい事を悟ったのだ。
「なるほど、では揺さぶりをかけてみてはいかがですか?」
「まあ何もせずに居るよりは宜しいでしょうな」
「そうですとも、なにか分かれば、儲けものです」
 国王の側近である宰相と公爵は、揃って邪悪な笑顔を浮かべた。
 その日のうちに国王直筆の正式な書簡があっという間に作成され、王都から早馬が発った。書簡は主要な関所を次々と通り、僅か四日でコルスタンへと届けられた。


  

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