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汝、その薔薇の名

6.噂の伯爵令嬢 6


 木骨組みの家々が軒を並べる城下をエスマ川に臨む緑豊かな深い谷とぐるりと囲うように連なる高い塔を備えた城壁が守っている。
 王都アスタインは、要塞都市の名にふさわしく、三つの堅牢な城壁によって防衛されていた。
 以前は第一次城壁とその外側にあった堀だけだったが、リチャード一世によって目覚ましい発展を遂げると、もう第一次城壁の中だけではおさまらないほど狭くなり人家は城壁の外にどんどん広がってしまったのだ。
 リチャード一世は、国王として即位してから三年目に城壁の大規模な拡張を行った。
 第一次城壁の不要になった部分は取り壊され、その外側にあった堀も埋立てられ、跡地の一部は舗装され街道へと繋がる道になり、残りは市民に分譲された。
 城壁を拡張するには莫大な費用がかかったが、その時、すでに商業で成功をおさめていたことや跡地の一部を分譲することで、その問題は解消した。
 リチャード一世が名君と呼ばれた理由の一つに、彼の王の民への関心の強さがある。リチャード一世は自分が守るべき民に心を砕くことを忘れなかった。
 アスタインの市民は朝な夕なに城壁を眺めては毎日を過ごし、戦などの変事がある時には頼りにしてきた。
 市民が城壁に愛着を感じていることを汲み取ったリチャード一世は、城壁を取り壊す際に、太陽の塔と月の塔、そして星の門だけはそのまま残すことにした。
 太陽の塔と月の塔は東と西にある城門として造られた塔だ。星の門は高台から城下を見下ろすブルク城へと繋がる正門である。
 国王の居城を中心とする貴族の住居を第一各区と定め、市街地を第二各区、第三各区としてそれぞれに内壁を造り、それまで第一次城壁の外にあった人家も取り入れると、アスタインはますます強力な都になった。
 人々は時にアスタインをリチャード一世の《王の庭》と呼ぶようになる。彼の王に守られしアスタイン、我らが王の庭…と。
 そんな王都の第一画区にある一際大きな屋敷で、ウィンザー公は視察中に溜まりきって積まれた書類に目を通していた。
 ウィンザー公爵家は、代々ヴィクトリア王家に仕えていた名門で、ヴィルバーンの筆頭公爵家一門である。
 その当主ともなるとやはり多忙である。なおかつ、現当主エドマンド・ウィンザーはヴィルバーンの《王家の棘》と呼ばれるセンティフォリア騎士団の団長でもあるのだ。
「エドマンド様」
 顔を上げればウィンザー家に仕える従事長のハンスが開けっ放しになっている扉から入ってきた。
 困惑気なハンスの様子にエドマンドは書類を置いた。
 ハンスはエドマンドがまだ赤子の頃からウィンザー公爵家に仕えている有能な従僕である。
 主従という枠があるが、エドマンドがこの屋敷の中で気楽に接することができるのはハンスだけであり、エドマンドに苦言や助言をいえるのもハンスだけだった。ハンスは大抵のことには物おじない威厳と公爵家に仕える誇りをもっているのだ。
「どうした」
「はい、エドマンド様。実はお客人が訪ねてらっしゃいまして、応接間にお通しておりますがいかがいたしましょうか」
「客?」
 エドマンドは形の良い眉を寄せた。
「今日は客が来る用事は無い筈だぞ。どういう要件だ」
「それが、直接お会いしてお話しすると仰っておりまして」
「いったい誰だそんなことをいう奴は…」
「……モンテナ公でございます」
 苛々としていたエドマンドはピタリと口を閉じた。
「なに…?」
「モンテナ公がいらっしゃっているのです」
「……使いの者ではないのか」
「はい。ご本人です」
「驚いたな、あの反国王派閥の筆頭公爵が直々に国王派の私を訪問してくるなど」
 ハンスは表情に懸念を浮かべて主人を窺った。
「どうなさいますか?」
「いいだろう…、会ってやろうではないか。いったいどのようなご用件だろうな」
「…エドマンド様、くれぐれもご容赦願いますよう。一応相手は公爵です」
 肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべてエドマンドが腰を上げるとハンスはこうなるだろうと思ったと言わんばかりに呟いた。
 応接間ではモンテナ公がでっぷりとした腹を押し出すように長椅子に座り、出された茶菓子をばくばく食べている最中だった。
 エドマンドがずかずか入ってきても気がつかなかったが、その横に座っていた青年はエドマンドにすぐに気が付き、静かに目礼してきた。
 エドマンドは盛大な舌打ちをしたいのをぐっと我慢して、彼らに近づいていく。するとモンテナ公が茶菓子から手を離した。
「これはこれは、仕事に忙しいとのことでしたのでもう少々待たされるかと思っておりましたがな」
「お待たせして申し訳ない。しかし、何の連絡もなくやって来たそちらにも非はあると思うが。それにどうやら退屈してはいなかったように見受けられる」
「ウィンザー家の従僕は充分なもてなしをしてくれた。なかなか使えるではないか、我が家の者たちにも見習わせたいものだ」
「それはどうも」
 がははっと笑うたびに、たっぷんと揺れる肉付きがいい横幅のある顔と二重顎、恰幅の良すぎる体格は私腹を肥やしてきた証拠で、エドマンドからしてみれば怒りの対象でしかない。
 公爵といっても序列や格などがあり、その地位や財産に差がある。
 血筋も財産もあり、自他共に認められる由緒正しい家柄であるウィンザー公爵家と比較するとモンテナ公爵家は少々見劣りする。
 モンテナ公爵家はウィンザー公爵家と違い王家の血筋は一切入っていないが、リチャード一世時代の功績を称えられて爵位を授与された一族だ。
 当時、知将といわしめられたモンテナ公当主はリチャード一世に仕えた名高い武将の一人として称えられたものだが、現在の当主はこのざまである。
 しかし、腐っても公爵。貴族の代表であり、市民たちから注目される存在なのだ。それは常時のときも戦のときでも変わらない。
 領民を守る領主のように、貴族であっても一度戦が起きれば前線に立ち、兵を率いるのがヴィルバーンでの常識だ。
 それは王の子であるリチャード王子然り、名君であったリチャード一世然り、例外はない。
 それなのにこの公爵ときたら、貴族としての義務を忘れ、権利ばかりを追求する。自分の利益ばかり考えて、周りを顧みない大馬鹿者だった。
 十三年前もそうだったし、五年前もそうだった。
 内心忌々しく思いながらも鍛えられた分厚い猫の皮をかぶり、エドマンドは悠然とした笑みを浮かべた。
 本当は今すぐ罵倒して、屋敷から放り出したいのだが…。
 ちらりとモンテナ公の横に影のように居座っている青年を見る。
 彼はじっとエドマンドを観察していたようだ。エドマンドの視線にもうろたえることなく笑みを返してきたが、その目は笑っていない。
 父親よりもこの息子の方がやっかいだった。父親はただの馬鹿だが、息子は腹の見えない狐なのだ。
「それで、どういったご用件か」
 室内で待機していた侍従たち――見晴らせておくためにハンスが気を利かせたのだろう――に手を振って退出させると、エドマンドは彼らの正面にある椅子に座った。
「いや…なに、少々小耳にはさんだのだがなぁ…」
 焦らしているつもりなのだろうか。
 垂れた目を細めてにまにま笑うモンテナ公にエドマンドは呆れた目を向けたが、冷涼な声が二人の公爵の間に割って入った。
「ファルツ伯爵のことでお話があって今回伺わせていただきました」
「こ、これ!」
「父上、我々がここに来たのは時間を無駄にするためではありません」
 慌てる父親をザックリと切り捨てると長い銀髪を後ろで一つに束ねた青年はエドマンドに向き直った。
 エドマンドは珍しいものを見たといわんばかりに青年を見返す。
 モンテナ公の嫡男アルト・ハイデルは、この父親からいったいどうやってこの息子が生まれたのかと誰もを不思議がらせる流麗な美青年である。
 父親に影のように寄り添い、滅多なことでは父親と相手との会話に口を挟むことはないが、父親から意見を求められれば、淀みなくすらすらと口上が返ってくる博識さを兼ね備えている。
 常に父親より前へは出ようとはせず従順にしたがっているが、その実、父親を隠れ蓑にして策略巡らしているのではないのかとエドマンドは疑っている。
 そんなアルト・ハイデルが珍しい事に父親を制して前へと出てきたのだ。なにかある。
「ファルツ伯爵がどうかしたのか?」
「そのご様子ではウィンザー公の耳にはまだ入ってきていないようですね。……ファルツ伯爵が貴族院に養子申し出に関する申請書を提出したそうです」
「なに…?」
「アルト!」
「はい、父上。出すぎた真似をしました」
 唖然したエドマンドの呟きに重なるようにモンテナ公が唾を飛ばしながら息子を叱咤したが、アルトは父親の怒りをそよ風ほどにも感じていないらしい。明らかに心のこもっていない淡々とした謝罪をするとそのまま口を閉じた。
 それで充分だったらしい。モンテナ公は鈍感なのか息子の機微すら気にした様子もなく、素直に自分の言葉にしたがった息子に満足そうに頷いた。
 そして、自らの威厳を再び示そうと咳払いをして、エドマンドの注意を自分に戻そうとした。
「わたしも今日知りましてな。驚いたのなんの…」
「……それは本当か?」
 エドマンドはアルトを見ながら尋ねたが、答えたのはモンテナ公だった。
「勿論! 貴族院は大童、すでに代表の過半数が許可しているので、宣言書が作成されているとか」
 でっぷりとした腹をぎゅうぎゅう押し出して意気込むモンテナ公の言葉に眉をよせてアルトを見れば静かに頷かれた。
 つまりモンテナ公の言葉はすべて事実だということだ。
 宰相がなんとかしてファルツ伯爵を懐柔しようとしていたことは知っている。それに対してファルツ伯爵が渋っているというのも聞いていたが、なんということだ。
 人間嫌いの引きこもり、あの、、ファルツ伯爵が養子をとるなど、誰が考えるだろう。
 養子といってもそんな簡単な話ではない。なんといってもファルツ伯爵家はアヴィランド時代から続く名門。アヴィランド初代王妃ゼフィーヌ・ド・ルネに仕えた一族の子孫である。
 本来ならば、公爵と名乗っても差し支えないだろうに――実際、あの一族は昔、公爵位を叙賜されたにもかかわらず、分不相応だと返還したという逸話がある――未だ伯爵位に留まっているのだ。
 下手な公爵よりも権力を持ち、発言力のある有力者がよりにもよって養子をとるなど…通常ならば考えられない。
 それに貴族院に属しているエドマンドの耳に入らないように画策するところが小憎らしいではないか。
 あのファルツ伯爵のことだ用意周到に策を要したに違いない。
 まったく、あの奇人変人は何を考えているのだ!
 無言で考え込むエドマンドに何を勘違いしたのか、ぺらぺらとしゃべり続けている――エドマンドは聞いていない――父親を息子が制した。
「父上、ウィンザー公はお忙しいのですからこれ以上お手間をとらせる前にお暇致しましょう」
「なに? これから私の考えを…」
「父上、目的は果たせたでしょう? それに既に時間をおしています。たしか昼にはアイク伯と昼食を共にすると言っていたではありませんか」
「おお! そうだった」
 聞き捨てならない言葉に反応しエドマンドが顔を上げると、アルトが意味ありげに微笑していた。
「そうですか、では家の者に送らせましょう」
 会食と託けて何の密談をするつもりかと糾弾したい気持ちを微塵も見せずにエドマンドが立ち上がると、外で待機していたハンスが扉を開けてモンテナ公を促した。
「それでは失礼する」
 どしどしと歩いて応接間を後にしたモンテナ公を見送ったエドマンドに、アルトは礼儀正しくお辞儀をした。
「突然の訪問に驚かれたでしょうね。申し訳ない」
「そう思うならばもう少し礼儀にかなった訪問をしていただきたいものだ」
 言外に父親に礼儀作法を叩き込んでおけと言わしめるとアルトは喉の奥で冷たい笑いを零した。
「父は甘やかされて育ったもので、周りが自分のいいなりになることが当然だと思っているのです。貴方とも対等だと思っている。愚かなことです」
「分かっているならば…」
「残念ながら、僕には父を止める気はありません」
 アルトは繊細な顔立ちを少しだけ歪めた。
「今はまだその時ではないので……、おいたが過ぎればそれ相応の罰が降ってくることを、父にもそろそろ認識していただかなければならない。しかし、それを父に与えるのは僕ではない」
 訝しげにするエドマンドにアルトは毒をにじませる花のように冷笑する。
「…何れ、わかります」
 父親の後を追って歩きだしたアルトだったが、扉の手前で立ち止まった。
「そうでした、肝心なことをまだ聞いていませんでした」
 振り返り、あたかも明日の天気を話すように話し出す。
「陛下はカラドボルグを手に入れることができましたか?」
 エドマンドは顔色を変えなかった。しかし、アルトは見逃さなかった。一瞬だけエドマンドの肩が強張ったのを。
「ふふ…、なるほど」
「アルト・ハイデル、貴公は何を知っている…いや、何を企んでいる?」
「何も」
「しらばくれる気か? その名を口に出しておきながら」
「本当です。は何も企んではいません。ただ…フォルデ陛下は玉座に座っていながら、王位継承法による条件を満たしていないので、何か起こった時、少々お困りになるのではないこと心配なだけです」
「陛下は正当に王位を継承したのだ」
 無礼な事を言うなと鋭く睨まれたがアルトは意に介さず「そうでしょうか?」と首を傾げた。
「今のことろヴィルバーンは安定しています。それは陛下の手腕のおかげでしょう。ですが、光があれば影ができるのも自然の摂理。どこに不穏な影があるかわかりません。五年前、陛下は武力によってヴィルバーンを平定した。今でもその時の陛下のやり方を恐れている貴族は多い。しかし、人間は愚かな種族で、生存本能よりも手を伸ばせば届くところにある利益に目がくらむ欲深なもの…」
「そういう貴公は陛下の味方か? それとも敵なのか?」
「……、それを聞きますか、モンテナ公の息子である僕に」
 厳しい表情を浮かべて睨んでくるエドマンドにアルトは困ったように前髪をかき上げた。
「そうですね…あえて言うならば、今現在のフォルデ陛下に心から頭を下げる気にはなれない…、というのが本音です。僕のように考える貴族は存外に多いのではないでしょうか。表面上では頭を下げている貴族でも内心では…。何故なら陛下は…」
「カラドボルグを継承していないからか?」
「……それだけではないでしょう」
 アルトはぽつりと呟き遠くを見るように窓に目を向けた。
「陛下の血筋…、さすがにこればかりはどうしようもありませんが」
 エドマンドはぐっと歯を噛みしめた。
 中央大陸の帝国ほどではないが、ヴィルバーンも血筋を重視する傾向がある。所詮どの国でも同じなのだ。
「その心配ならば無用だ。レディ・ヘンリエートがいる」
「ドルシュッタ家の女侯爵ですか…、陛下は女傑と名高いドルシュッタの白百合をお望みなのですか?」
「彼女は先王ウィリアード陛下の従姪にあたる」
「傍系とはいえヴィクトリア王家の血統筋というわけですね」
 アルトは細い顎を撫でながら瞬いた。
「ではリチャード王子のご息女――行方の知れぬヴィクトリア王家の正統王位継承者である王女のことは諦めたのですか?」
 カッと目を見開いたエドマンドにアルトはしてやったりといった様子で笑った。
「ご心配なさらず。父上たちはまだ王女を見つけていません……、ふふ…僕としたことがつい喋りすぎてしまいました。これ以上は父に怪しまれてしまいますので、これで失礼させていただきます」
 優雅に一礼すると、エドマンドに口を挟ませる猶予を与えずアルトは応接間を後にした。


  

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