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汝、その薔薇の名

6.噂の伯爵令嬢 8


 あのファルツ伯爵が養子をとる。
 この噂は瞬く間に宮廷中に広まり、貴族たちの知る所となった。
 養子となる少女を見た者は誰もいない。その事が貴族たちの想像をかきたてたのか、誰もが挙ってファルツ家に面会を取り付けようとした。
 貴族たちの使いが伯爵家に殺到した為、一番迷惑を被ったのはファルツ家の侍従たちである。
 伯爵家の一切をフリードリッヒから任されている侍従長は、好奇心の塊である貴族たちからの書状を切り捨て全くとりあわなかったが、王宮からの使いばかりは、けんもほろろに追い返す事は流石に出来ずフリードリッヒに判断を仰いだ。
 フリードリッヒはこの事態を予想していたようで「とうとう来たか」と一人で呟いた。
「王宮からの使者をお通し致しますか?」
「使者はどうせ宰相からの使いなのだろう」
「はい」
「仕方がないな」
 その返事を聞いた侍従長が安堵して退くと同時にフリードリッヒは写本を閉じた。
 黒檀色の皮でできているその書物の表紙にはタイトルはなかった。ただ、銀でできた二匹の蛇がお互いの尾を飲み込もうと絡み合うように円を描いている。
 フリードリッヒは手のひらでそっとその本の表紙を撫でた。
 すると二匹の蛇が動き出し、するすると本の表面を移動して形を変える。みるみるうちに二匹の蛇は頑丈な銀錠となり、本は開閉できなくなった。
 それを確認するとフリードリッヒは手に取っていた本を何事もなかったように、もとあった本棚に無造作にしまう。
 そして椅子のところへ戻りながら窓へと視線をやれば、夕日が赤く燃え立っていた。
 ポケットから懐中時計を取り出すと鎖がじゃらりと音を立てる。
「ふむ…」
 時間はもうすでに夕刻を指そうとしている。
 エリーゼとミハエルがマギステル卿を連れてノスタルジアへと向かったのは今日の早朝。予定では昼過ぎに現地に到着し、馬を見つくろって帰宅するのは夕方になるはずだ。
 しかし、未だその様子はない。
 懐中時計をしまい、立てかけておいた杖を手にとるとフリードリッヒは宰相の使いに会うために図書室を後にした。
 宰相からの使いを口先三寸で丸め込んで追い返すと、フリードリッヒは夕食までの間、どうやって時間を過ごそうかとふらふらと庭までやってきた。
 夕焼けに染まる庭をぼんやりと見ていると視線が引きつけられる一角がある。
 それは色とりどりの花が植えられている中で、一際輝いて見える薔薇の群生だった。たしか、エリーゼが庭師と一緒に世話をしていたなとフリードリッヒは思った。
 エリーゼは自ら言っていたが家事全般をこなせる。気がつくと館の色々なところにうろちょろと出入りしていたのはいつ頃からだっただろうか。
 自然とエリーゼたちが出かける前夜、ミハエルとの会話を思い出す。

 フリードリッヒとミハエルはこれからの事、貴族院の状況、王宮の情勢などを話し合っていた。
 途中、マギステル卿から報告されたエリーゼの授業内容に話が及ぶと、蒸留酒ドランブイの入ったグラスを傾けながらフリードリッヒは頷いた。
 どうやら満足のいく内容だったようだ。
 細長い指で顎を撫でながら言った。
「まずまずだろう。思っていたよりも呑込みがいいようだな。元々才能があったのかな?」
「それもあるだろうが、本人の努力が一番大きいんじゃないのか」
 ミハエルはグラスに入っていた僅かな酒を飲み干すと自ら瓶に手をかけて注ぐ。
 しっかりとした味わいを楽しめるが、ミハエルにとっては些か物足りない。もっときつい酒を頼もうかと思ったが止めた。
 目の前で飲んでいるフリードリッヒはきつい酒が趣味ではないからだ。今でもこれでもかというぐらいの水割りで飲んでいる。
 ここはフリードリッヒの家だし、家の主人の趣向に合わせるかと思い直した。
「先日、一緒に馬乗りしてみたんだが驚いた。様になってて」
「それで馬を与えてはどうかと提案したのか」
 ミハエルはこくりと頷くとその時のことを思い出した。
 ファルツ家の屋敷は王都郊外に建っているので人目につかないように馬乗りするには都合がいい。
 緑の大地を駆ける馬に乗った少女は背をぴんと張り、その顔はまっすぐ前だけを向いていたが白い手は自由自在に手綱を巧みに操った。
 陽ざしにあてられまばゆく輝く白い頬は真珠のようで、生き生きとした表情と相まって大輪が咲き誇っているようだった。
 長い髪は風を切るような軌道を描き、金の旋律を流麗に奏でたまま流れて残像を残した。
 自分と同じ深紅の瞳はただ只管正面だけを見詰めていたが、その眼差しはまるで目の前ではなく、どこか遠くその先を見つめているようにも見えた。
 人馬一体となって駆けて行くその姿はどこか神懸ったような神聖な雰囲気を醸し出していた。
 世界から切り離された…、自分たちとはまったく違う生き物のような、そんな印象をミハエルに残したのだ。
「素材がいい。彼女にはどこか人を従わせる気品がある。もって生まれた…そう、言うなれば王侯貴族のような……」
「ミハエルもそう思ったか」
 フリードリッヒはドランブイの中に蜂蜜をたっぷりと入れてかき混ぜた。
「我輩もそう見た。だが、調べてもとくに怪しい経歴じゃなかった。少々可笑しな風はあるがね」
 ミハエルは眉を顰めた。
「態々調べたのか」
「念には念を入れてな。我輩は気になることは徹底的に調べなければ気がすまないのだ」
「嫌な性格だな」
「褒め言葉と受け取っておこう。闇商人から聞いた故郷での評判はとても良い。領主と仲が良かったそうだが、住んでいる場所を誰も知らないというのが理解できない」
 そう言いながらもフリードリッヒの顔は笑っている。
「随分気に入ったんだな」
「うむ。我輩も自分で驚いている。エリーゼが来てからというもの、退屈がどこかへ飛んでいった。少々謎が残るがそれもまた一興だ」
 確かにそうだ。
 エリーゼがこの館に来てからというもの、毎日何かしらおきる。
 休憩時間に行方をくらまして調理場へと入り込み料理人と混じって菓子を作っていたり、侍女たちと一緒に洗濯をしていたり、庭師と一緒になって土を穿りかえしていたのは序の口である。
 この館に慣れてくるとエリーゼは随分と適度に授業を抜け出し、気分転換をするようになった。
 それがまたすばしっこいのなんの、この前など三階の窓から脱出して僅かな溝を伝って移動していたのである。
 見つけた従僕は気の毒に卒倒しそうになっていた。
 今ではもうエリーゼと侍女たちの追いかけっこはこの館では恒例行事となっている。
 散々駆け回ってもエリーゼは肩で息をするどころか、生き生きとしているのだ。しかも、それに付き合う館の人間も楽しそうにしているので、怒る気も萎えてしまう始末である。
 ミハエルは苦笑した。
 風で吹き飛ばされそうな儚い風貌と行動がまったく一致していない不思議な娘だった。
 以前では考えられない事だが、エリーゼが来てからこの館は明るくなった。
 エリーゼという台風がこの館に渦巻いていた陰鬱とした空気を吹き飛ばしてしまったかのようだ。
 フリードリッヒもそう感じている。そしてそれを不快に思っていないのだ。驚くべき変化だった。それをもたらしたのは自分たちよりも年下の少女だ。
「実に面白い。見ていて飽きない。だが、正直ここまで従順に従ってくれるとは思わなかったな」
 そうなのだ。
 エリーゼは厳しい修練に眉を寄せはしても、文句を言わない。授業を抜け出しはするが、この館から逃げようともしないのだ。
 ミハエルは思案顔を上げた。
「ああ…、それは私も気になっていた。それで思い切って聞いてみたんだ」
 ミハエルは馬乗りを終えたエリーゼに疑問をぶつけたのだ。
 違法の取引で買われたのだ。嘆き悲しむのが普通の反応だろうに、エリーゼにはまったくそれがない。何故ここまで付き合ってくれるのか不思議だった。
 故郷に家族が居るならそこに帰りたいとは思わないのか、ミハエルはそう尋ねた。
 エリーゼは風に煽られた長い髪を手で整えて、少し沈黙してからミハエルの質問に答えてくれた。
「違法で買われたにしては私への待遇がいいからです。これが奴隷みたいに扱われていたら、いくら私だった一にも二もなく逃走してます。それと私、両親の顔知らないんです」
 ミハエルは直ぐに謝ろうとしたがエリーゼは軽く手を振った。
「いえ、両親はいないですけど家族はいますよ。私を育ててくれた人たちです。血の繋がりはまったくないんですけど彼らに会いたくないのかって聞かれれば、勿論会いたいです。でもね、今すぐにっという訳とはちょっと違うんです」
 エリーゼは顎を上げて春期の暖かい日差しに目を細めると、人差し指でちょこんと空を指した。
「この空は何処までも続いていて、私たちはどんなに離れていたとしてもこの空の下にいて、生きているんです。どうしても我慢できなくなって会いたくなったら、自分の足で会いに行けばいいんです。私には考える頭があって、自由に動く手があって、大地を歩いていける足があるんだから。そうでしょう?」
 驚きに目を見張っているミハエルに、エリーゼは笑みを浮かべた。
 それは哀愁や期待といった、色々な感情が入り混じった不思議な微笑だった。
「それに婆様が言ってました。人が生きている世界は、魚が生きている川と同じなんだそうです。私は何時かその流れの中に飛び込まなくちゃいけないんだって……。もしかしたら、その時が来たのかなって思ってるんです」
 エリーゼはそう言うと乗ってきた栗毛の馬を親しげに撫でて、手綱を側で控えていた馬丁へと返した。
 その後、共に館へと戻ったのだが、その間ミハエルは一言も言葉を喋る事ができなかった。
 ミハエルが話し終えると、蜂蜜と水で薄めたドランブイをちびちび飲んでいたフリードリッヒが視線だけをぎょろりと動かした。
「我輩はエリーゼを侮っていたようだ。彼女は本当に十六歳かな?」
 本気で首を傾げるフリードリッヒにミハエルの表情がほぐれた。
「その台詞、お前だけには言われたくないと思うぞ」
「失敬だな君は。まあ、エリーゼが何を考えているのかは知らんが、我輩にはエリーゼが必要だ。エリーゼも納得してここに居て協力してくれるというならそれ以上はない」
「……フリードリッヒ」
 ミハエルが次の言葉を言う前に、亡霊のような男は悪戯っぽく目を輝かせてにまっと笑った。
「勘違いはしないでくれ友よ。我輩は恩知らずではない。それにエリーゼは我輩の娘になるのだから、彼女が困却した時は堂々と手を差し伸べればいい」
 のうのうと宣ったフリードリッヒにミハエルは絶句して噴出した。
「違いない」
 フリードリッヒとミハエルはお互いのグラスを当てて乾杯した。
 二人はその深夜まで酒を交わし続けたのだ。

 フリードリッヒが記憶を引っ張り出している間にも太陽は沈みかけ、庭の隅に影が出来始める。
 もうすぐ太陽と光の時間が過ぎて、月の女神と闇の精霊の時間がやってくる。
 フリードリッヒの思考を引き戻したのは建物の陰になっている場所から突如として湧いて出た気配だった。
「む…」
 そちらに視線を投げれば、ゆらゆらと揺れる黒い影が一つ。フリードリッヒの眼光が鋭くなる。
 黒い影は頭を垂れたまま地面の底から響くような低い声を発した。
〈―…主ヨ…〉
「どうしたのかね? 我輩はエリーゼについているように命じたはずだが?」
〈―…申シワケアリマセン、保護対象ヲ見失イマシタ…―〉
「ほう…、それはどういうことかね?」
〈―…炎ノ加護ヲ持ツ何者カニハジカレテ追跡ハ不可能…―…現在、邪眼ト紫電ノ騎士ガ後ヲ追ッテオリマス、イカガイタシマスカ…?〉
「はじかれた?」
 興味をそそられた。しかしフリードリッヒは首を捻る。
「いったいノスタルジアで何があった」
 眼下で生きる人間を嘲笑うように夜空に昇った月がうっすらと顔を出した。


  

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