眠りから覚めるように瞼を開ければ見慣れた部屋だった。侍女がグラスに葡萄酒を注いでいる。
瞬きをする僅かの間の逢瀬だった。しかし、伝えるべきことは伝えた。久方ぶりに見たフリードリッヒの顔に満足感に浸る。
手に持っていた花飾りのついた扇子を振れば、給仕をしている侍女を残して控えていた侍女たちが静々と退出していく。
ワインを手に取り葡萄酒を飲みながら――人間のように飲食するのは一種の趣味だ――めまぐるしく頭を回転させる。
くす…。女主人の含み笑いに侍女が顔を上げた。
「楽しくなってきたわ…」
いつになくはしゃいだような声に侍女はわずかに瞠目した。
ブルク城は水面下であわただしい動きを見せていた。
いつもと変わりないように見えても目に見えない空気を敏感に感じ取ることに長けているウィンザー公は、大股で廊下を歩き国王の私室へと足を早めた。置いてかれないように必死にウィンザー公についてくるお付きの従者の努力は無駄で、ほとんど置いてかれている。
連絡を受けてすぐに屋敷から駆け付けたウィンザー公に気がついた衛兵が扉の前からわきへと移動する。
後ろにいる付き人にここで待つように指示をすると駆け足で扉へと向かった。
「遅くなって申し訳ありません」
近衛の守る扉からあわただしく入ってきたとたんそう言ったウィンザー公は待ち構えていた宰相と国王に軽く頭を下げた。
急な呼び出しに申し訳ないと声をかける宰相と会話をすませたウィンザー公は国王に目を向ける。
「状況はどうなっているのですか?」
「エルドランからの密使が内々に接触してきた」
眉間に皺をよせて気難しそうな顔の国王にウィンザー公は不満げに鼻を鳴らす。
「謁見するおつもりですか」
「ああ」
「使者は誰です?」
「サンスルワット伯レイモンド・マコルトです」
答えたのは宰相だった。ウィンザー公は足を開き腕を組んだ。
「レイモンド・マコルトはエルドランの公使ではありませんか。外交においてエルドランの王太后から実質、全権を任されている実力者。そのような人物が、けしからん事に人の目を忍び、謁見を申し出でてくるなどただ事ではありません。何を考えているのか、何を申し出てくるのかわかったものではない」
「同感だ。理由は不明だがな、あちらは相当気がせいているとみえる。これ以上待たせるわけにもいかない」
「もちろん私もお供します」
相手の目的が分からない以上警戒するのは当然のことだ。そんな場に国王一人で臨ませる気はさらさらないと雄鶏のように胸を膨らませる公爵に国王はにやりと笑った。
「そう言うと思ったから呼んだのだ」
「青鹿の間にて席を用意しました。先に侍従長が使者をもてなしております」
立ち上がった国王の後ろにウィンザー公と共に続いた宰相が言い添える。
青鹿の間は賓客をもてなす数ある客室の一つだが、奥まった通路の先にあり人目につきにくい。密談するにはもってこいの場所だ。
国王は長椅子に脱ぎ捨てた時のまま無造作にかかっている上着を手にとると執務室を後にした。
長い夜になりそうだ。
青鹿の間で待っていたエルドランの公使とその従騎士二名は辛抱強かった。待たされても文句一つない。従事長の前でぼろをもらすことはなかった。
国王に続き部屋に入ったウィンザー公は客人に素早く目を走らせる。なにが従騎士だ。そこにいた従騎士の見知った顔に内心で悪態をつく。
彼らは従騎士などではない。少なくとも一人はれっきとした騎士だ。
それもエルドラン王家直属近衛騎士団の副団長である。
目を細めたウィンザー公に対して相手は軽く頭を下げた。自分の身分にウィンザー公が気がつくことは予想していたようだ。それも当然のことだといえる。ウィンザー公は国王の使者としてエルドランに外交の関係で度々赴いている。その時紹介された顔を忘れたりはしない。相手も同じことだ。
声をひそめて国王に耳打ちすれば小さな頷きが返ってきた。
「待たせて申し訳ない」
「いえ、こちらこそお忙しい時間を割いていただきありがとうございます」
椅子から立ち上がり国王を迎えたサンスルワット伯と二名の従騎士は深々と頭を下げる。上座に用意された椅子に国王が着席するとそれぞれ用意された場所に着席した。
突然の来訪を詫びるサンスルワット伯を柔和な笑みで宰相が歓迎することを伝えた。
サンスルワット伯と宰相が話している間も国王の表情は変わらない。眉間のしわと厳しく鋭い眼光は周りの人間を委縮させる効果がある。しかも不機嫌そうに見える為、敬遠されがちだ。だが、本当に機嫌が悪いわけではない。国王の標準装備はその真意を表情から読み取ることはできない。
「今回の訪問を怪しむのももっともの事です。しかし、どうか私の言葉に耳を傾けていただきたい」
「ならば本題に入ることにしよう。俺は遠まわしな表現は好かん、目的は何だ」
豪然としている国王にひるむことなくサンスルワット伯は真正面からじっと鷹の眼を見返した。
「この度、私は王太后陛下の命を受けて参りました」
ずばりと切りこんできたサンスルワット伯に宰相とウィンザー公は短い目配せを交わした。
「ではこの訪問は公式なものと考えていいのか?」
「はい。しかしながら表向きは内密にしていただきたいのです」
「何故だ? ヴィルバーンとエルドランは同盟国であり、今まで友好な関係に努めてきた。公式な訪問は珍しい事ではない」
「残念ながら今回の訪問が表ざたになると危険なのです。エルドランを出立する時も用心に用心を重ねました。王太后陛下はご自分の騎士までつけてくださいました。彼は《シュヴァリエ》のロバート副団長です」
サンスルワット伯は右後ろに立っている青年を紹介した。黙礼する騎士を観察していた国王は口を開く。
「そなたの武勇は兼々耳にしている」
「光栄に存じます」
淡々とした答えだったが、国王はにやりと笑う。謙遜しないところが気に入った。事実それだけの実力を持ち合わせている騎士だということは知っている。
「王太后陛下はわたしの身を案じるだけではなく、私に与えられた使命を重要と考えておられます。そしてできる限り迅速に私はヴィルバーンへと入国しなければなりませんでした。その為、少々小細工を使用しましたが、ヴィルバーン側に不利益になるようなことはありませんのでご安心を」
不法入国したと言外に自己申告した公使に宰相は苦笑した。一国の宰相としては聞き逃せない言葉だろうが、当の国王が気にしていないので口を出すことを控えた。
それに隠密行動をする際、身分を偽り他国に出入りしている間者は存外多い。自ら申告しててくるだけまだかわいい方である。
「事態は一刻を争うと王太后陛下はお考えです。時間がすぎるほど深刻になっていく…と。それを収拾するためにはどうしてもヴィルバーンの協力が、フォルデ陛下のお力が必要なのです」
「その深刻な事態とは一体何だ」
サンスルワット伯は目を落とし膝の上で組む自分の両手を見つめた。新呼吸を一つ落とすと顔を上げる。
「現在、我が国の国王であるルドルフ陛下と王太后陛下との間に血のつながりがない事は周知の事実です」
「ああ…、確か王太后の一人娘との婚姻関係を結んだことで王位が転がってきたのだったな」
エルドランの先代国王と王妃――現在の王太后ヴェルミナの間には娘が一人しか生まれなかった。王女シャルロンである。
「シャルロン王女が五歳の時、先代国王がお亡くなりになりました。先代国王には愛妾がおらず、王家の血を引く男児は一人もいませんでしたので王位はシャルロン王女に継承され、女王として即位されました。しかし、シャルロン王女は当時五歳でしたので王太后陛下が摂政を務められたのです」
つまり庶子はいなかったわけだ。ヴィルバーンの国王の出生は他国にも知られている。その国王の前で愛妾云々を口に出すとは肝が据わっている。流石にエルドランの実力者だけある。
国王の方も面の皮は厚い。眉一つ動かさず頷いた。
「有名な話だな。ヴェルミナ王太后の政治的手腕は確かなものだ」
「我々も誇りに思っております。…そして王女が十六歳を迎えたら王太后陛下は政治から身を引くおつもりだったのです」
「だが実際は今も健在だな」
「……はい。その大きな理由はルドルフ陛下にあるのです」
「二人の仲が芳しくないことは知っている。シャルロン王女の死に夫であるルドルフが関わっているのではないかとヴェルミナ王太后は疑っているらしいな」
まことしやかにささやかれている噂だった。
サンスルワット伯の表情に一瞬だけ険しさが宿る。
「噂ではないのです」
サンスルワット伯のその瞳の奥に煮え滾っているのは怒りだろうか。
「シャルロン王女はかねてからの婚約者であった現在のルドルフ陛下と十六歳の時、正式に結婚されました。そして結婚式の当日の夜、航海中の船の上から海へと転落したのです。夫となったルドルフに突き落とされて」
怒りのためか最後の方は押し殺したように低い声だった。
いきなり突き付けられた他国のスキャンダルにも発展しかねない話題に宰相はぎょっとし、ウィンザー公はぴくりと眉を吊り上げた。国王は小さく鼻を鳴らす。
「そこまで言うのだ。もちろん証拠はあるのだろうな」
「シャルロン王女はとても賢い方です。王太后陛下と共に何度も船に乗ったことがあり、好奇心旺盛で海や船に詳しかった。波が強い夜の海の甲板に出たりはしません。絶対に。我々は疑い、内々に調査を進めました。その間にも王位は移り――婚姻の宣誓書では夫婦での共同統治を認めています。シャルロン王女の生死は不明でしたが、荒れた海に落ちてはその生存は絶望的だという意見に押されルドルフが国王として実権を握ることになったのです。だが、我々は諦めませんでした」
しかし、捜査がかなり難航したことは言うまでもない。当時の船は早々に壊され、雇われていた船員たちは他の船に雇われて行方が分かるのはごく少数だけであり、王女の付き人として船に乗った者たちは暇を出されて田舎へと帰されていた。
「あきらかに計画的でした。邪魔も幾度となく入り、王太后陛下も何度となく御命を狙われました。黒幕が娘婿であると陛下は確信していたからです。しかし、確たる証拠もなく現国王を非難はできない。尻尾はつかめぬまま二十年の歳月がかかりましたが、やっと目撃者を見つけたのです」
「そのわりには嬉しそうではないな」
「……探しだした船員三名とシャルロン王女の侍女に――金をつかまされていたようで随分と苦労しましたが、口を割らせたのです。正式な証言書も取りました。しかし、次の日彼らは全員独房の中で死亡していたのです。七日前のことです」
「毒殺か」
「はい。配給されたスープに盛られていました」
「だが証言書がある」
ぐっと手を握りしめ悔しそうに顔を歪めたサンスルワット伯を見て国王は悟った。
「内部の犯行だな」
「油断していました。国王側の間者がいることを予測しておくべきでした」
「国王を裁きたいのならば証拠がなければ意味がないぞ」
「我々はまだ諦めていません。法に基づいて国王を裁けないのならば、違う方法で玉座から引きずり落としてみせる」
その自信に満ちた口調に国王は訝しげにする。
「随分と確信があるようだな」
「我々にはまだ希望が残されているのです。―――シャルロン王女とそしてそのご子息、正式なエルドランの王位継承者という切り札が」
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