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汝、その薔薇の名

8.月と太陽の廻り 1


 ふと、名前を呼ばれた気がしてエリーゼは顔を上げた。
 今までじっとしていたエリーゼが動いたことにランスも釣られるようにして頭を傾ける。
「どうした?」
「いえ…」
 エリーゼも首を傾げる。
 なんだろう?
 確かに呼ばれたような気がしたのだが…空耳?
 しきりに首をひねるエリーゼをまじまじと見てランスは苦笑した。
「しかし…わっかんねぇお譲さんだな」
 きょとんとするエリーゼにランスは胡坐をかいて座る太ももの上に頬杖をついた。
「だいたい、魔導師の術にもひるまない、物騒な短刀は振り回す、夜中にもかかわらず森の中を平気で走り回るって…普通のお譲さんじゃねぇよあんた」
「無我夢中だったので」
「それでも根を上げず、愚痴も文句も言わねぇ…、普通の娘ならとうに泣きだしてるぜ」
「これぐらいで泣くような軟じゃないです」
「そりゃ頼もしいこった。だがよ……おれを罵倒しないのか?」
「何故?」
「そもそもの原因は俺なんだぜ、あんたは巻き込まれただけ。あんたは俺を罵る権利がある」
 エリーゼは心底不思議そうな顔をした。
「私、怒ってませんよ」
「………別に怒れとは言ってねぇぜ」
「でも…――、もしかして怒られたいんですか?」
 ランスは視線を逸らした。
「ちが…わなくもないか…。非難されれば少しでも楽になれるとか思ってるのかもな…」
「私が巻き込まれたことが自分せいだと思って心を痛めているんですね? ……優しい方。でも私は巻き込まれたとは思っていません。貴方のせいだとも思っていません。安心してください」
 ランスは視線を逸らしたまま口をむっつり噤む。目元が少し赤らんでいる。
 しばらくパチパチと爆ぜる火を見つめていたランスは唐突に沈黙を破った。
「あんたはおれのこと気味悪いとか思わねぇの? 見ただろう? おれがなにもない所から炎を出して操ってるところ」
「なら反対に聞きますが、私が妖精の道を案内したこと…どう思いますか?」
 ばっと振り向いたランスはエリーゼの紅い瞳が真剣な眼差しをしているのに気が付き、思わず開いた口を閉じた。
「…あんたは命の恩人だ。気味が悪いなんて思わねぇよ」
「同じことです。貴方も私を助けようとしてくれた。そうでしょう?」
 笑ってそういうエリーゼに緊張していたランスは肩の力を抜いた。
「あんたにはちゃんと説明しといたほうがいいな…」
「言いたくないなら心の中にしまっておいた方がいいですよ」
「いや、おれが嫌なんだよ。あんたが何も知らずに振り回されんの。それに隠すほどたいしたもんじゃねぇし…」
 首の後ろを摩りながらランスは顔を顰めた。
「つーか…説明する前にちゃんと名乗っとかないとな」
「そういえば、私…名乗ってませんでしたね」
 お互い今さらのことに思わず笑みがこぼれた。
「ランスってのは愛称さ。おれの名前はランスロット・ベンウィックってんだ。たいていはランスで通ってるからそう呼んでくれ」
「わかりました。私はエリーゼです」
「エリーゼ? 何の略だ? エリーゼといやエリザベトとかそういう高貴な名前の愛称だろ?」
「高貴とかそういうことは知りませんけど、ただのエリーゼです。子供の頃からそう呼ばれてきましたから」
「へえ? そりゃ珍しいな」
「珍しいんですか? 物ごころついた時にはそう呼ばれていて疑問にも思いませんでしたし…、でもあながち否定できないかもしれない。婆様が――私を養ってくれていた人ですけど、面倒がって略してそのままなのかも」
「なんだよそりゃ」
「大雑把な人なんです。でも私はエリーゼで気に入ってます」
「ふーん? ま、いいんじゃね? 気にいってんならさ」
「はい」
「さてと…お互い名乗ったことだし、本題に入るとするかね」
 特に気負うことなく、手の中にある木の実を転がしながらランスは話しだした。
「おれはこの土地の生まれじゃなくてさ……、中央大陸のリビアラで生まれたんだ」
「リビアラ…」
「そう、あたり一面砂でおおわれた大地と照りつける太陽が眩しい国さ……とはいえ、それは周りの国から見ればの話でな、国のなかに入ればかなりの水源やオアシスがあるんだぜ」
 リビアラは国土の大部分がサハル=サラ―古代語で荒れた土地を意味する―砂漠の一部である。
 面積の半分を砂漠が占めているので、年間を通して乾燥している砂漠での降水量は少ないが、北部の海沿岸では比較的安定した量の雨が降る。
 砂漠には砂丘のみならず、岩石砂漠や礫砂漠が存在するが、南部には純度の高い鉱石が産出される山脈が走っており、北部の海沿岸には西から東にかけて屈曲する湾岸を所有しているので、グラディウスとの交易も盛んである。
「リビアラは元はアイギュプトスの一部にすぎない貧しい国だったが、独立後は銀や鉱石が取れる山脈の発見と一部の砂漠に埋蔵されていた黒油石のおかげで豊かな国になったわけだ」
 貿易によって財をなしたリビアラではあるが、それでも国土の二割は耕地となっており、農業や牧畜に従事する国民も多い。
 牧畜によって育てられた兎羊の毛から織られるリビアラ独特の模様が美しい絨毯はグラディウスでも高級品として扱われている。
「アイギュプトスってたしか中央大陸の中南端地域にあった古代の巨大中央集権国家ですよね?」
「よく知ってるな…」
「知ってますよ! 本に書いてありました。二千年間もの長きに渡って権力を手中に収め続けた黄金の王国と呼ばれた大国ですよね?」
「ああ。今じゃ滅亡した国だけどな」
「暗黒時代の初期に崩壊したんでよね」
「まあな。熟れ過ぎた果実と同じ原理だろ。巨大になり過ぎたんだよアイギュプトスは…熟れ過ぎて内部は腐ってたんだろうな。国内に国王と大神官と女王の三人の権力者が並び立つとかわけのわからねーことになるぐらいな。そりゃ国が分裂するってーの」
 現在のリビアラは大昔、アイギュプトスと呼ばれる大国の一部にすぎなかった。
 暗黒時代の騒乱の世、三人の権力者によって国が三つに割れ、唯一の正当な王位継承権を持つアイギュプトスの王女は、王都を命からがら脱出たものの追手によって追い詰められてしまう。
 その時、王女が出会ったのがアイギュプトスの悪名高き大盗賊団を率いていた大盗賊である――現在のリビアラのリビュ地方に根城を構えていた大盗賊団の所為でリビュ地方は悪の巣窟と呼ばれていた――思わぬところに逃げ込んでしまった王女だったが、それが王女にとって幸運だったとことは間違いない。
 大盗賊は追手を蹴散らし王女を助けたのである。
 今も尚、語り継がれている大盗賊はリビアラの国民にとって英雄だった。
 孤立無援となった王女を手助けし、国を奪還した大盗賊は後にその王女と結ばれ、アイギュプトスから枝分かれしたケムト、ダースル、リビアラの三国の内の一つであるリビアラの君主となったのである。
 故にリビアラは別名〈盗賊の国〉とも呼ばれている。
「おれの親父はその盗賊の国の君主スルタンでな」
「スルタン…王様ってことですね。じゃあランスは王子様?」
「あー…間違ってはないな。ま、居ても居なくてもどうでもいい息子ってやつだ」
 どういう意味だろうとエリーゼが見つめる中でランスは頬をぽりぽりと掻いた。
「親父には息子や娘が大勢いるんだよ。ハレム…あー、こっちではなんていえばいいんだ? 側室? 妾…でいいのか?」
「わかります。後宮のことですよね? 国王には愛妾が大勢いるんですか?」
「愛妾…つーか、厳密にはちょっと違うんだけどな。ハレムつーのは女たちで形成された居室といえばいいのか? 簡単にいえばリビアラの君主は大勢の女を囲うことが習わしでさ、富裕な存在である王侯貴族の権力の象徴としてアイギュプトスの時代からの風習らしいんだが…親父も例にもれずハレムを持ってるんだよ」
「それで子供が沢山?」
「そういうこと。おれの母親が俺を産む前に、親父には後継者候補が目移りするほどいたわけだ。で、親父の後継者は優秀なおれの異母兄に決まってるから、安泰なわけ。後から生まれたおれはただ飯ぐらいの暇人さ」
 にやりと笑い肩をすくめて見せる。
「けど、親父はおれの母親を熱愛しててさ…結婚しちまったんだよな」
「愛し合っているなら当然の流れなのでは?」
「それがちょっと問題でさ」
「問題?」
「原則として君主はハレムにいる女奴隷ジャーリヤたちとは法的な婚姻を結ぶことはないから、後継者となりうる男子を産んだとしても女たちは建前上、奴隷身分のままなんだよ」
「珍しい風俗ですね」
「かもな。それなのにおれの母親が女奴隷から君主の正式な妻にまで取り立てられて大騒ぎ。でもって母さんがグラディウスのエルドラン王国の王女だったってことが発覚して、そりゃもう大騒動だったぜ」
 げんなりと話すランスの様子から、よほど稀有な例で大事のようだ。
「色々もめたけどさ、結局母さんの身分がものをいった。まさか一国の王女を知らぬとはいえ奴隷扱いしていたとは言えねーし、外交問題になりかねない。それなら国王の妻として扱った方がよほどましだと大臣共も思ったんだろな。親父と母さんは、はれて正式に夫婦として認められたが他にも問題があった」
「いったいどんな?」
 ランスは視線を地面に逸らした。
「リビアラの君主が子を孕んだとしても女奴隷と法的な婚姻を結ばないと言ったこと覚えてるか?」
 エリーゼが頷けばランスは静かに嘆息した。
「にも関わらずおれの母親は取り立てられて后妃ハセキの位を賜った。君主の正式な妻だ。結婚する前に生まれたとはいえ、おれはその息子。大臣の中からおれを後継者にするべきだとかぬかしやがる奴らが出てきてな…」
「でも…」
「ああ。親父の後継者は既に決まっている。後から出て来たおれは邪魔意外の何者でもない」
 ランスは苦笑して木の実をかじったが、視線はまだ下を向いていた。


  

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