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汝、その薔薇の名

8.月と太陽の廻り 2


 そんなランスをじっと見つめていたエリーゼは首を振った。
「私はランスじゃないからランスの心を本当の意味で分かってあげることはできない。王の子として生れ育ったわけでもないから、権力に追従する圧力も知らない。でも、ランスがやりきれない気持でいるのが伝わってくるよ」
 顔を上げたランスにエリーゼは真摯な光を湛えた瞳を向ける。
「お兄さんの為に国を出たの?」
 目を見開いたランスにエリーゼは首を傾げた。
 動揺したことを隠そうとするように額に手を当てたものの、ランスは無性に胸のあたりをかきむしりたくなった。
 エリーゼの言葉がストレートに心に刺さった。
 何故わかった?
 真実を言い当てたエリーゼに対して拒絶が湧くと同時にじわじわと湧き上がってくる暖かな感情があった。
「……おれと異母兄は五歳年が離れてる。異母兄弟が大勢いる中、珍しい事におれと兄貴は比較的仲がよかった。母親が違っても本当の兄弟のように遊んだよ。子供の時は心底兄貴に憧れてた。強くて賢くて、何でもできる兄貴が羨ましくて、それ以上に兄貴が誇らしかった。彼の弟であることが誇りだった。一部の大臣がおれを後継者に挙げても、兄貴はおれを疎んだりしなかった」
 苦いものを噛んでしまった時のようにランスは顔を顰めた。
「おれを疎んだのは兄貴の母親だ。彼女は次期君主の母でありヴァーリデと呼ばれる称号を得て敬われていたから、そうとうおれと母さんが疎ましかったらしいな」
 ひとたび自身の生んだ息子がスルタンとなり即位することとなれば、ハレムの女主人として高い尊敬を払われる身分となる。
 しかし、彼女の上をいく身分の者が突然現れた。
 君主の妻、后妃である。
 そして我が子の相続位まで危ぶまれる事態に発狂しかねない思いだっただろう。
「何度も刺客に狙われたよ」
「でも生きてる」
「ああ…こうして生きてる。兄貴のおかげでな」
 ランスは瞼を閉じた。
「おれだけならまだしも、彼女はおれの母親…后妃までもを手にかけようとした。こればかりは見逃せない。后妃とは君主の妻であると同時に国の母となるべき存在だ。君主と同じくリビアラを支える一部だ。……兄貴は自分の母親を誅殺した」
 ランスは息を呑んだエリーゼを宥めるようにその頭をがしがしと撫でた。
「おれは兄貴に実の母親を殺させちまった」
「それはランスの所為なの? 私は違うと思うけれど」
「そうだな…違うかもしれない。兄貴もお前のせいじゃないと言ってくれた。憎悪に心を任せてしまった自分の母親の…心の弱さが原因だと。だが、わりきって考えられるもんでもないだろ? 原因がどうあれ、おれは兄貴の母親が狂った理由の一つなんだから」
 聞いている方がせつなくなるような声だった。
「おれは兄貴に申し訳なくてさ…リビアラに居るのが辛かった。そんな時、母さんからエルドランの事を聞いたんだ」
「エルドランの?」
「エルドランの現在の情勢や現国王と王太后の確執のこと…夫になった男に殺されそうになってエルドラン出身の母さんがどうやってリビアラにたどり着いたのか、どうやら母さんは早い時期から自分の出自を親父だけには話していたらしい。母さんのために親父は密かにエルドランの内情を調べて知らせていたんだ」
 息子のおれには最近まで秘密にしてたっていうのに…とランスは愚痴った。
「それで知ったんだ。エルドランの王太后が未だに自分の娘を探していることを。エルドランに未練がないと言えば嘘になるんだろうな、母さんは懐かしそうに…だが、寂しそうに話してた」
 王太后にとってエルドランに大事なものがあるように、母親にとって大切なものはリビアラにあるという。
 だからエルドランには帰らない。
 そうはっきりと言いきった母親の顔をランスは思い出す。
「それでもエルドランの王太后は母さんの母親だ。親愛の情が薄れることはないらしい。母さんは自分が生きてること、エルドランには帰らないこと、だが、現在幸せに暮らしていることを伝えたいと言っていた。だからおれは海を渡りグラディウスに来たんだ」
 それが建前であることは自分自身がよく知っていた。
 そしておそらくエリーゼを気が付いている。だが、エリーゼは何も言わなかった。
 ただ静かにランスの話に耳を傾けている。
「リビアラから離れることができるなら何でもよかったんだ。おれがリビアラに居れば、遠からずまた揉め事が起きる。そうすればまた兄貴に迷惑をかけるだろうことはわかっていたからな。兄貴はいずれリビアラの君主になる。おれはその障害にしかならない存在だ。おれは…兄貴の邪魔にだけはなりたくない」
「お兄さんが大好きなんですね」
 柔和に微笑んだエリーゼにランスもそっと目元を和らげた。
「不思議だな…こんなことまで話すつもりはなかったんだが」
 ランスから渡された木の実をもぐもぐと頬張るエリーゼを観察しながらランスはぽつりと言った。
 栗鼠のように食べ物で両頬をぷっくりと膨らませているエリーゼにランスは噴き出す。
 きょとんとしているエリーゼになんでもないとランスは手を振った。
「それでエルドランまで来たんだが、なかなか王太后と会えなくて困ったぜ。どうこうしてるうちに盗賊の真似ごとまでしなくちゃならなくなるしよ」
「盗賊?」
「あー…一年ぐらい前にエルドランの国境で大怪我してるおっさんを助けたんだが、そいつが義賊の大将でさ。気も合うしなんとなく一緒にいたら、いつの間にか盗賊やってた」
 あっけらかんとランスは言った。
「おっさんはいい奴だし仲間と一緒に騒ぐのは楽しいが、警兵は鬱陶しかったな」
 顎に手を当ててランスは思い出にひたっている。
「だが、盗賊をやってたおかげでエルドランの大物と接触できた」
「大物ですか?」
「一、二ヵ月程前だったか…? 馴染みの山賊たちと一緒にいた時に遭遇したんだが、おれたちを捕まえに出兵してきたらしい。国境警備隊とか名乗ってたな」
「………あれ?」
 よく似た会話をちょっと前に聞いた気がする。
「もしかして…ランスってベン・グレンとか呼ばれてる?」
「ん? たまに呼ばれるけど?」
 ランスは可笑しそうに唇の端を上げた。
「リビアラではベンウィックって赤い岩って意味なんだけど、こっちには似たような赤い山って意味でベングレンっていう言葉があるんだろ?」
 エリーゼはこくこくと頷くことで答えた。
「ベン・グレンってのは、おっさんが面白がって言いだしたんだがいつの間にか定着した愛称だぜ」
 意外な事実を知ったエリーゼである。
「とりあえずその国境警備隊の団長ってやつが話のわかりそうな奴だったんで接触したわけだ」
「ちなみにどうやって接触したんですか?」
「どうって…、夜に忍び込んだに決まってんじゃん」
「見事なほどに不審人物ですよ。よく抵抗されませんでしたね」
「………。あーなんだ、ほら、男って拳と拳のぶつかり合いでわかり合うもんだろ?」
「へぇ」
 そうなんだ。と、納得したエリーゼだったが、もしここにミハエルが居れば全力で否定するに違いない。
 こいつはただの不法侵入者だ! 真に受けるな! …と。
「その伝手でエルドランの王太后と接触できたことにはできたんだが、肝心の指輪を受け取ってもらえなくてな…母さんの伝言は伝えられたんだが」
「指輪?」
 ランスはごそごそと胸元から首にかけた鎖に通されている指輪を取り出してみせる。
「おれが十五の時に母さんから貰ってスカラベ代わりに身につけてた指輪だ。王太后に帰すつもりで持って来たんだがいらないと言われた」
 指輪を服の下に戻しながらランスは嘆息した。
「正確には、この指輪の所有者はおれだから受け取れない…だったかな」
「もしかしてその指輪は…」
「ご明察。これはエルドランの王位継承者の証らしい。知った時はまいったぜほんと…母さんも厄介なもん押しつけやがって」
「でもランスはエルドランの王女様の息子でしょう? 王太后様は間違ったことは言っていないと思うよ」
「…たとえそれが母さんを殺そうとした下種野郎でもエルドランにはもう国王がいるんだ。俺を擁立しようとすれば、王太后は間違いなく国王と衝突することになる。最悪、内乱になりかねない」
「そっか…じゃあ、ランスを追ってる兵士たちはエルドランの騎士なんだね。ランスや一緒にいただけで私を殺そうとしてたってことは、エルドランの国王の配下? 国王にランスのことがばれちゃったの?」
「ああ。だからおれは逃亡の途中なのさ。見つかれば間違いなく殺されるからな」
「国王になりたくないの?」
 何か言いかけたランスを手で制するとエリーゼは静かに続けた。
「エルドランから逃げてるのって、ランスがリビアラを去った理由と同だよね? もちろん根本は違うけど。似てる。国の中に争いを起こしたくない。つまりそういうことでしょう? でも、リビアラでは去ることで済んだかもしれないけれど、今回は解決にはならないよ。お兄さんのことがあるならなおさらリビアラに帰るつもりはないんでしょう? いつまでも追われたままでいることはできないよ」
「だからって起こさなくて済む争いを態々起こせと?」
「私勉強したから知ってる。エルドランの現国王に後継ぎになる子供はいないよ。継承順位ならランスは正当な第一王位継承権を持ってるんだよ。ランスを殺したがってるということはエルドランの国王はそれを認めたくないってことだよね。それは国王の身勝手だよ。よくない。ランスにはそれを正々堂々正す権利があると思う。それにランスの存在はもう国王に知られてるんでしょう? なら、もう個人の問題じゃないと思う。エルドランの騎士は国王に命じられてランスを追って来たんだよ。それってもう国を巻き込んでいるんじゃないのかな?」
 押し黙ったランスは、きまりの悪そうな顔をした。
「ねえ、ランス。ランスは国王になりたくないの?」
 先程はすぐに浮かんだ―勿論なりたくないという―固定の言葉が、今度は出てこなかった。


  

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