エルドランの王になりたいと思ったことは一度もない。
当初、異母兄に対する罪悪感と無益な争いを避ける為に母国を出て、母の祖国であるエルドランへとやってきたのは、ただの気まぐれのほかでもない。
母国を去ると決めてから行くあてもない人生故に、母の願いをかなえるのもまた一興だと思っただけだ。
エルドランの王太后――祖母にあたる人は長年一国を支え続けただけあり貫禄のある老女で、心身ともに気丈な人だという印象だった。そんな祖母が自分の娘の無事を喜び、涙を流す姿を見た時、良い事をしたのだと安堵した。
それなのに指輪を返そうとして断られたのは予想外のことだった。
祖母からエルドラン国内の情勢を聞いても、それは王宮にたどり着くまでに噂や実際に見聞きして知りえたことばかりだったからだ。
何故なら盗賊として――義賊などと市民からは褒めそやされているが所詮はお尋ね者だ――活動していたからエルドランの裏側は嫌というほど知っている。
彼の王は王太后派以外の貴族からの支持はあれど国民からはあまり好かれていない。
国民の人気のあったという――実際は生きているが、母の死にまつわる後ろ暗い噂が未だに払拭されずにいる事や支配層的観念を持つことが理由だろう。
王都の華やかな一面に比べて、地方のそれこそ田舎での民に課せられる税は増税の一途をたどっている。
下層に生きる市民が過剰に虐げられている実情を彼の王は知っているのだろうか?
王太后は知っていた。そしてそれを憂いていた。
エルドランは生まれ育った国ではないから大した思い入れはない。
だが、それでも自らの欲求を優先させる彼の王のやり方は気に入らない。憤りを感じたのは事実だ。
今でも自ら進んで王になりたいとは思わない―――だが…。
「やだねー、ほんと」
考えに耽っていたランスがくつくつと笑いだす。
口の中にまだ木の実が入ったままなのでエリーゼは視線を動かしてランスを見つめた。
「そりゃあ、おれも男だからよ。男に生まれたからには一度はてっぺんに上り詰めてみたいと思ったことはある。何でもいい。武人でも盗賊としてでも…だがよ、一国の王なんてのは柄じゃねぇーよ。王なんて損ばかりだぜ? 権謀術数に身を置いて、国のために身を粉にして働かなきゃならねぇ。一度、戦でも起こりゃあ戦場に立って全責任を負わなきゃならなくなる。どう考えても割にあわねーよな」
父親の背中を見てたから王宮に巣食う魑魅魍魎を知ってる。
異母兄の背中を追いかけていたから玉座の重みを知っている。
「自ら進んで玉座を獲りにいったヴィルバーンの血なまぐさい征服王の気がしれねぇと思ったもんだがよ…」
好き好んで挑みたいと思うようなものでないと思っていた。
「血は選べないってことかね…?」
自分の中には母方から受け継がれたエルドランの血が流れている。ほとんど実感などわかなかった。
それでも確かにこの身に流れている。王族として生れた以上、最低限の義務が課せられることを知っているからなおさらこれ以上、見て見ぬふりはできない。
王族は国とその民に対して責任を負う義務がある。異母兄は肉親を殺すことでそれを証明した。ならば自分もそれに恥じぬような生き方をしなければならない。
言葉とは裏腹に顔には余裕綽々と言った笑みが浮かぶ。
どうやらランスの心の整理はついたようだ。
「少し仮眠をとるぜ。夜明け前にここをでる」
もしゃもしゃと木の実を噛砕きごくんと飲み込んだエリーゼは頷くと剥いた殻をせっせと集めた。
ねじまがったサイプレスと巨大な柏槇の木が鬱蒼と生い茂る森を進みながらランスは前を行くエリーゼに内心で感嘆した。
この森の木の幹はエリーゼの腕より太かったが、彼女は足をとられることなく軽快に進む。エリーゼの顔より大きな葉を生やし前方をさえぎる枝をなんなく避けて、まるで自分の縄張りを軽快に歩く猫のような足取りだ。
まだ朝日が昇る前の薄暗い木立の中、軽い睡眠と休息をとったエリーゼとランスは動き出した。
当然ついていこうとしたエリーゼを複雑そうに見つつも、ここで別行動をとって何かあった時に後々後悔するだろうと自分に言い聞かせたランスは、まず、捕らえられたサフィアを救出するべく襲撃してきた男たちを見つけたいと話した。
どうやらエリーゼが盗賊のようだと思った彼らの装いは傭兵に見せ掛けるものであったらしく、ランスは隠れていて行動していたところを導師によって発見され、彼らに追われていたようだ。
途中で敵を撹乱する為に別れたサフィアは彼らに捕まっていると導師が言っていた。
導師の言葉は嘘ではなかったと主張するエリーゼの意見を聞きいれ、追手の居場所を探ることから始めることで二人の意見は一致した。
だが、この広い森の中をむやみやたらに捜索するのは得策ではない。むしろ、動き回って追手と遭遇してしまっては意味がない。
そこでエリーゼは森に住む動物たちとコンタクトをとることにした。
栗鼠や鳥といった様々な動物たちと入れ替わり立ち替わり話し始めるエリーゼに呆気にとられていたランスだったが――傍から見ればエリーゼが一人で話しているようにしか見えなかった――エリーゼが「こっちです」と言って足取り確かに歩き始めて慌てて我に返り続いて歩き出した。
エリーゼは時折周りを見渡したり、飛んできた鳥と話したりしながらランスを振り返った。
「どうやら彼らはこのままの方角から森を出たところにある湖の近くの小さな村で宿をとっているみたいです」
真剣な表情でそういうものだからランスはまじまじとエリーゼを顔を凝視してしまった。
「ここらの娘の特技には動物と話せることが必須なのか?」
「さあ? 私はこの辺りに住んでいるわけではないのでわかりませんが」
言葉を真に受けてそのまま返すエリーゼにランスは苦く笑った。
「エリーゼは動物と話せるのか?」
「はい」
「悪く思わないでほしいが……、それをおれに信じろと?」
「信じなくでもいいですけど、信じて行動すれば素早い対応ができると思います」
動揺することもなく大胆にも深紅の瞳でまっすぐに見上げてくるエリーゼにランスが折れた。
「ほんと不思議なお譲さんだな…」
「不思議なのはランスも一緒だよ。あっさり信じてくれる人間がそうそうない事は私もわかってる」
「おれの場合はそういったことに耐久があるからさ」
草蔓が絡まった木の枝を避けて通る。
「それは炎を操ってたことと関係があるの?」
「まぁな……、おれの中には魔人がいるんだ」
エリーゼは驚いて首を回してランスを見た。
「ジン?! じゃあもしかしてランスを加護しているのは炎の精霊なの?」
魔人とはこちらでいう精霊や妖精など人間を超越した魔力を所有する自然霊的存在に対して使う言葉だ。
同じように、災いをもたらす神や異教の神――特に位が高く強力な魔力を持つ異形の魔を指して《魔神》と称する場合もあるが、必ずしも邪悪な存在はない。
善とも悪ともつかぬ人ならざる者だが、なかには人々に告知や予言を与えて守護するジブリールのような魔神もいる。
「よく知ってるな。加護というよりもこれは嫌がらせに近いと思うがな…」
「そんな勿体ない! イフリートって人嫌いで有名だよ? 人と接触するのは何百年に一回とかそのくらいに稀で、すっごくすっごーく希少価値が高いんだからっ」
意気込んで瞳を爛々と輝かせるエリーゼにランスは思わず一歩引いた。
「そ、そうなのか…?」
「うん! だからランスはもっとその加護を敬うべきだよ。逆に毛嫌いして遠ざけようとするほど能力に侵食されて暴走してしまうと思う」
ハッと息を呑んだランスにエリーゼは振り返った。立ち止まったエリーゼにつられてランスの足も止まる。
エリーゼは胸に手をあてて瞳を閉じてふにゃんと頬を緩めた。
「神々の《恩恵》と違って、精霊の《祝福》や妖精の《善き悪戯》は昔からより人の近くに息づいているの。精霊や妖精は自分たちとは違う人間に興味を持っていて、近づいてくる。そして一緒にいるうちに彼らは自分たちにない筈のものを人間から得るんだよ。それは心とか感情とか、そういう人にとって大切なもので、彼らはそれをいつのまにか覚えるの。学習して記憶して応用する。彼らはとても繊細で高度な存在なんだよ。だから善にもなるし悪にもなる。そして幸運にも与えられた加護をどう使うか、それもやはり人間次第で善にも悪にもなってしまう。ランスはその加護を嫌っているみたいだけれど、それはとても善いものだよ。澄んだ清らかな魔力が感じられるもの。…それだけじゃない。ランスに対する愛情も伝わってくる。悪いものじゃないと思うな」
「………そんなふうに考えたこともなかったな…」
ランスはくしゃっと顔を歪めた。
「おれがまだ母さんの腹んなかにいた頃、陰謀に巻き込まれた母さんはダースルに誘拐されたことがあってな、その時にジンと接触があったらしい。おれが生まれる前のことだし、この力には苦労するばかりでいい思い出はないから今まで頓着したことなかったが……、おれに対する愛情が感じられる? 本当に…?」
おっかなびっくりするように、だがしかし、声音の中には誇らしさとか哀愁といったものが滲んでいた。
エリーゼは胸を張って大きく頷いた。
「うん。間違いないよ。かわいい、かわいい…大好きだよ。君のことを見守ってるって魔力が歌ってる」
小鳥が囀るように伝わってくる。
イフリートは獰猛かつ短気で人嫌いといわれているのが嘘のようなまでに温かさを感じる魔力の歌だ。
間違いなくランスは炎の精霊の加護を受けている。
そして使い手の心次第で、その大きな力はランスに添うようになるだろうとエリーゼは伝えた。
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