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汝、その薔薇の名

8.月と太陽の廻り 4


 尖った枝が低く突き出し、密生している緑の蔦が目に入る半数以上の木に絡まりながら自然の美しい模様を作り出していた。
 こんもりとした苔と短い茎が地面を這い、葉を空中へと伸ばす色鮮やかなシダが繁茂している。
 道らしき道はないというのに、行く手をふさぐ倒木を器用に迂回しながらエリーゼはランスを導いた。
 前方を見れば森が開け、その先には湖と民家の屋根がまばらに軒を連ねている。
 まだ薄暗い中、静寂に包まれている小さな村を、大木の影に隠れてエリーゼとランスは様子を窺った。
「ここって…」
「トバの村だな」
 ここまで案内してくれた耳長鼬に感謝を述べて見送り、エリーゼはうっすらと汗をかいた額を手で拭う。
 マーレの森の中でなるべく方向を確認しながら進んだつもりだったが、なにぶん慣れない森である、多少の不安があったので、まだノスタルジア内であったことに安堵する。
 ファルツ伯爵家の領地ノスタルジアには、領内に十二の村が点在している。
 その中でもっとも大きいのは、もちろん領主の館があったルグルであり、このトバの村は付近の湿地を活かした薬師の村であるという事前にフリードリッヒから与えられた知識を思い出す。
 見たところ宿は一つしかないが、ここに昨夜襲ってきた追手が留まっているとみて間違いない。
 ランスが言うには、昨夜の追手は十人ほどだったが、ニつの分隊で編成される小隊――約五十人程がヴィルバーン入りしているという。
「追われる身にしては情報通だね」
「蛇の道は蛇っていうだろ」
 使える伝手は有効活用する主義なんだとランスはにんまりと片目を瞑る。
「じゃあどこかにまだ四十人はランスを追う兵士がいるんだね」
「ああ。他国の兵が侵入しているなら流石にヴィルバーンが気づくはずだが、ルドルフは大事は避け、おれのことは隠密に処理したいと思っているはず。およそ五十人程の小隊を十人ずつに分け兵傭としてヴィルバーンに入りこんだんだろう。それなら関所で怪しまれることもない」
「通行手形さえあれば傭兵はどの国にも出入り可能だからね」
「そうだ。分割された兵士を動かすには軍務の経験が浅い者ではまず無理だが…、なにしろ小隊を率いてるのがアルベールだからな…」
「誰ですか?」
「シュヴァリエの連隊長さ。本来なら小隊を率いるような御仁じゃあないな」
 シュヴァリエと呼ばれる王家直属近衛騎士団にも派閥があるらしく、現在は王太后派と国王派に分かれ、お互いの力量を目算し火花を散らしている状態らしい。
 しかも現国王ルドルフは、忠誠の証として自らに剣を捧げた選良階級の騎士の集団を独自につくり、特権を与えているとか。それが他のシュヴァリエとの確執を生み、騎士団内の亀裂を大きくする原因となっているようだ。
「逃げてる途中に切り合ってみてわかったが、小隊自体を構成している兵士はおそらく下級士官だ。一人一人相手にするなら負ける気はしねぇけど、生憎と集団で来られたらちと分が悪いぜ」
「それならなおさら戦うよりもサフィアさんを先に助けないと」
「まったくだ。せめてサフィアがどこにいるのかわかればまだ身動きがとれるんだが…」
 腕を組んで考え込んでいたエリーゼは、ぽむっと手を叩いくとランスを手招きしながらこそこそと宿の納屋へと近づいていく。
 首を傾げながらもランスは足音を立てることなく後に続いた。
 するりと納屋へと入りこんだエリーゼは、腰に巻きつけた袋の中を探り取り出したビスケットを手で砕きながら地面へと落とす。
 今度は何をするのだろかとエリーゼの横顔を興味を深く見ていたランスは、カサカサと何かが動き回る音に気がついた。
 どこから聞こえてくるのかと首をめぐらせていると、崩れかけの壁の穴からひょっこりと顔を出した鼠と目が合う。
 びっくりしたのは鼠も同様だったようで、さっと壁の奥へと隠れてしまった。
 しかし、エリーゼが歌うような優しい口調で話しかけると、鼠は再び顔を出した。
 丸い耳をぴくぴくと動かしてエリーゼの声を聞き取った鼠は、穴から出てくると素早い動きでエリーゼの足元へと駆け寄った。
 とがった鼻先をひくひくと動かしながら、小さな手でビスケットの欠片を持ち上げ食べ始める。
 それが合図だったように隠れていた他の鼠もわらわらと這い出てきた。
 どこにこんなにいたのだろうかとランスがちょっとぎょっとするぐらい次から次へとやってきた鼠の群れは、エリーゼの足元で各々ビスケットをかじっている。
 群れの中で一回り大きな鼠――最初にエリーゼの元へとやってきた鼠だ――が、くりくりとした瞳でエリーゼを見上げた。
 エリーゼはその鼠と話し始めた。
 鼠を驚かせないようにランスは距離をとっていたので、ぼそぼそとした声しか聞き取れないが、どうやらこの宿に泊っている追手の状態を探ってくれるように頼んでいるようだ。
 大きな鼠がエリーゼの言葉に相槌を打つように顔を動かしたり、他の鼠たちも聞き耳を立てているように見えて来たので、馬鹿くさいと思いながらもランスは突飛な行動を起こすエリーゼを信じている自分に心の中で苦笑した。
 エリーゼは探しているサフィアの容姿を詳しく説明し、どこに捕らえられているのか探してほしいと最後に付け加えると、おそらくリーダー格であろう大きな鼠が、まかせておけというように「チュー!」と鳴いた。
 自らの内に魔人を宿していることから多少のことでは動じない図太さを持っていると自負していたランスだが、長い尻尾をふりふりさせて、それぞれ散っていく鼠の群れを見て――地面に落ちたビスケットはきれいさっぱり無くなっていた――エリーゼに毒されているなとしみじみ実感した。
 鼠と話すために腰を曲げていたエリーゼは、ビスケットの滓がついた手を払いながら立ち上がる。
 ランスは愉快そうに目を細めてエリーゼに提案した。
「彼等が追手を探ってくれている間に作戦を立てるか?」
「いいですね」
 エリーゼはにっこり微笑んだ。
   森の中へと戻り、身の丈にも及ぶ高さに繁殖したシダをかき分けながら作業していたエリーゼとランスは、朝日が昇り、共に村の人々が動き出したのを感じた。
 情報を収集することに協力してくれた鼠たちは既にいない。
 手に入れた情報を加えてこれからの作戦を話し合ったエリーゼとランスは作業に没頭していたが、村の方から聞こえてくる鶏の鳴き声に二人して図ったように顔を上げた。
「じゃあちょっくら行ってくっから、無理はするなよ?」
 くれぐれも自ら危険に飛び込むような真似はするなと――できれば身を隠していろと何度も言い含めるとランスは獰猛な猫科の動物のように足音一つ立てることなく村の方へと向かって行った。
 その背中を見送りながらエリーゼは嘆息する。
 二人の作戦会議で意見が衝突したのは、エリーゼのことだ。
 確かに相手の不意をついて奇襲するにはエリーゼは足手まといだし、ましてや赴く場所はつい何時間か前に殺されそうになり剣を向けられた敵のど真ん中だ。
 相手は十人――鼠たちの情報によるとあの導師と呼ばれていた男はいないそうだ――とはいえ、訓練された兵士だ。
 ランスがエリーゼを森の中へ置いていくことを主張した理由も分からなくはない。
 不満だったがランスの意見は間違っていないし、反論することは憚れたエリーゼだったが、それでもなにもせずに安全な場所でのうのうと大人しくしているなど性に合わない。
 自分も何かしたいと粘り強くランスを説得した結果――余りのしつこさにランスが根負けした――なんとか譲歩を引き出せたが、エリーゼはたった一人で敵陣に赴いたランスが心配だった。
 作業の続きをする為に腰をおろしたエリーゼはきゅっと眉間にしわを寄せた。
「私だってちゃんと役に立てるのにな…」
 草を結び終えたエリーゼは大木に背を預けて凭れかかった。
 さわさわと葉を揺らす木々に笑みがこぼれる。
「慰めてくれるの?」
 緩やかな風と共により一層葉を揺らす草木にエリーゼは「ありがとう」と呟いて瞼を閉じる。
 コルスタンの永久の森に養い親と住んでいた時、エリーゼは一人で何でもこなしていた。
 日がな一日気楽に好きな土いじりをしていたとはいえ、エリーゼは養い親が働かない分動き回っていたのだ。ゆえに自分が役立っているということを実感できたし、身体を動かすことは苦ではない。
 養い親は昔からエリーゼを構うことなく大釜に夢中だった。
 森の中に放りこんでおけば妖精たちが面倒をみるだろうと考えていたのか、エリーゼがまだ幼い頃から、一般的なものさしで測る【育てる】という行為をほとんど放棄していた。そんな放任ではなく、放置主義の養い親がエリーゼに干渉するのは、自らの魔導師としての知識やこの世界に関することを教えるときだけだ。
 それでもエリーゼはあの養い親が嫌いじゃない。
 天気が良い限り布団は毎日干せとか、食べ物の好き嫌いが激しくせっかく作ったご飯に文句を言おうが、人使いが荒い面倒くさがりだろうが、エリーゼはそんな養い親が好きなのだ。
 時に妖精さえも膝をつかせる偉大な魔導師であり、人生の師であり、人ならざる者たちの中で育ったエリーゼが自分は人間なのだと確認できる存在であり、そして…エリーゼにとっての家族だった。
 それは離れていても変わることはない。
 こうして森の中に居ると、コルスタンで生活していた思い出が次々と頭の中に浮かんできた。
 楽しくて優しい思い出になのに、何故こんなにも寂しく切なく感じるのだろう?
 エリーゼは自分自身を叱咤した。
 今はそんなふうに考えている場合じゃない。
 目の前にあることに集中しなければ駄目だ。
 自分ができる範囲で為すべきことをするために、考えなければ…。
 考え込んでいたエリーゼを励ますようにさざめいていた草木が突如ぴたりと静止した。
 その不自然さにエリーゼがパッと目を開くのと同時に近くの木の根元がぐにゃりと歪む。
 そこからぽんっと飛び出してきたのは見知った顔のピクシーだった。


  

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