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汝、その薔薇の名

8.月と太陽の廻り 6


 遥か記憶の彼方から揺り動かされるような既視感を感じる。
 甘く、濃厚な薔薇の芳しき香りと共に、どこかで会ったことがあるような…そんな曖昧さが脳裏をよぎった。
「陛下」
 魔法にでもかかったかのような不思議な空気を一刀両断にする声が遮った。マギステル卿だ。
 マギステル卿は、膝をつき敬礼を示した。
 藍色の鋭い眼光がじろりとマギステル卿を見下ろした。
「謹慎処分中の卿が、何故ここにいるのか――…、」
 朗々と響く低い声だ。
 男はこちらに向かってくるフリードリッヒとミハエルを一瞥すると冷たい笑みを浮かべた。
「ファルツ伯の顔に免じて敢えては問わぬ」
「ありがとうございます」
 頭を下げたまま静かに感謝を述べるマギステル卿に男は鼻で笑った。
「お前のように肝の据わった男は貴重だからな」
 そう言うと、手綱を引いた。
 背中を向ける直前、男はエリーゼを見たが、すぐに視線を逸らす。そしてフリードリッヒとミハエルと入れ違いに騎士たちの方へと去っていく。
 男とすれ違う際にフリードリッヒとミハエルが恭しく道を開ける。その様子を目で追っていたエリーゼの前にミハエルが馬から降りて駆け寄ってきた。
「エリーゼ!」
 エリーゼをつかまえたミハエルはどれほど心配したか喚き立てると怪我がないかと全身に視線を走らせ調べた。
 宥め、謝り、また宥める、を繰り返すエリーゼにようやくミハエルは安心したのか身を引いて、ゆったりとした動作で馬から降りたフリードリッヒに場所を譲った。
「随分活躍したようでなによりだ」
「皆さんに心配をおかけしてしまいすみません」
「なに、無事だったのだからそんなに気に病むこともあるまい」
 頭を抱えるミハエルと額に手をあてて溜息をつくマギステル卿を余所にフリードリッヒはニタリと笑った。
「あの…」
「エルドランの王位継承者ならば、……あそこだ」
 騎士たちの間を通り抜け、走ってきたランスの元気そうな姿にエリーゼはほっとした。
「エリーゼ! よかった…怪我してないか?」
「はい」
「悪りぃ…、サフィアを助けて森に入ったのはいいが、待ち伏せされてよ」
「大丈夫だったんですか?」
「まあな。危機一髪ってところで助けられたよ…」
「ランスロット様、そろそろ…」
「わかってるって」
 気遣わしげに近づいてきた大柄で壮年の男にランスは頷くと真剣な顔でエリーゼと向き合う。
「エリーゼ、巻きこんじまって悪かった。それとありがとな。あんたには色々と助けられた」
「私こそ足手まといだったような気がするけど…」
「そんなことないさ。それにあんたのおかげで前に進む決心がついたんだ。背中を押してくれたあんたにはすっげぇ感謝してるよ」
 きょとんとしているエリーゼにランスは快活さの滲む笑みを浮かべた。
「おれはこれからエルドランに戻る。これから忙しくなるし、今度いつ会えるかわからねぇけど、この借りは必ず返すぜ。何か困ったことがあったら連絡くれよな」
 ひょいっと身を乗り出し、エリーゼの頬に軽い口づけを送る。
 眉をひそめるマギステル卿と複雑そうな顔のミハエル、そしてニヤニヤと笑っているフリードリッヒに道化師のように一礼するとランスは壮年の男を伴って歩き出した。
「エルドランの次期国王を陥落するとはなかなか…隅に置けぬな、エリーゼ」
「気が早いのではありませんか」
 マギステル卿が辛辣な口調で横やりを入れる。
「エルドランの王太后やヴィルバーンの後ろ盾があるのだ。彼が成功する確率の方が高いだろう」
「まあ…、そうですが……」
「ふむ。我々もそろそろ移動することにしようかね」
 促されてミハエルの馬に同乗させてもらったエリーゼは、集まっている騎士たちを指して尋ねた。
「彼らは…?」
「ああ…彼らはノスタルジアの騎士と《王家の茨》エグラテリア騎士団だよ。彼等が潜伏していたエルドランの兵士たちを押さえたんだ」
 傭兵に扮し個々にヴィルバーンに進入していたエルドランの小隊は、ランスを追ってノスタルジアに集結していた。
 十人程はトバ村の宿に陣取っていたが、残りは周囲に潜み、ランスが仲間を助けに来るだろうと予測し、目を光らせていたいたのだ。
 そこにエリーゼとランスはまんまとやってきてしまった。
 嬉々としてランスを追い詰めた彼らも、まさかヴィルバーンの騎士団が出てくるとは思わなかっただろう。
 さらに小隊を率いてるアルベール連隊長は、表向きは国王派のシュヴァリエとして国王ルドルフに従っていたが、実は王太后派に属するシュヴァリエだった。
 アルベールは密かにルドルフ側の行動を監視する密命を帯びており、レイモンド・マコルトに連絡を取っていたの彼である。
 自ら追手に志願したのも、ヴィルバーンへと逃げたランスを守るためだったのだ。
 アルベールとレイモンド・マコルトの連絡網とヴィルバーンの騎士団の連携により、ランスは危機を逃れたのだとミハエルはエリーゼに説明した。
「それにしても素早い対応だった。さすが王家の双璧というべきだね」
 近くにいた騎士に森の中にも斬り捨てた追手が居ることを伝えたマギステル卿がさもありなんと頷く。
「王家の双璧って…《王家の棘》と《王家の茨》でしたよね? ヴィルバーンの王家を守る近衛騎士団」
「そう。《王家の棘》と《王家の茨》は国王に剣の誓いを立てているから、国王自ら出陣すればどこへでもついてくるだろうさ」
 本来ならばヴィクトリア王家を守る近衛騎士団は三つ存在するのだが、現在は《王家の棘》と《王家の茨》のみでヴィルバーンの双璧と呼ばれている。
 エグラテリア騎士団とセンティフォリア騎士団――《王家の棘》と《王家の茨》は勇猛果敢、武勇を尊ぶヴィルバーンの剣と盾である。
 そんな《王家の棘》と《王家の茨》と並ぶのが、三つ目の近衛騎士団…、幻の騎士団とも呼ばれている《王家の蕾》である。
 幻とまで呼ばれる所以はその騎士団の設立理由と存在意義に関係がある。
 かの騎士団《王家の蕾》は、―――ヴィルバーンの王妃に剣の誓いを立てる、王妃直属の近衛騎士団なのだ。
 前を向いたままフリードリッヒは淡々とした声で呟いた。
「……国王が妃を娶れば再び設立されるだろう」
「おい、フリードリッヒ。《王家の蕾》が表舞台に出たのは歴史を振り返ってもアヴィランド初代王妃の代を除いて一度しかないんだぞ?」
「英雄王リチャード一世の代だな。伯爵、その《王家の蕾》がこの征服王の代で復活するとお考えなのですか?」
「さてさて…我輩、未来が分かるわけではないので確信しているわけではない。しかし…未来は分からないからこそ面白いのだよ」
 先程すれ違った国王の横顔を思い出したフリードリッヒは、エリーゼを振り返ると意味ありげにニタリと口角を引き上げた。

 ノスタルジアの領主の館に到着したエリーゼはレシンやマゼル、他の召使たちに出迎えられた。
 マゼルなどエリーゼの姿を見て「ああ…お嬢様! よくぞご無事で!」とおいおい泣き出してしまった。
 自分は大丈夫だと伝えようとしたエリーゼだったが、ガバリと顔を上げあまり装いに――森の中を駆けまわったのだから仕方がない――憤然と逆切れしたマゼルに言葉は遮られた。
 がみがみと説教をされながら――レディ・アテルダを思い出していた――エリーゼは、マゼル率いる召使たちに連れられて、風呂へと直行することとなった。
 さっぱりとして着替えを済ませたエリーゼは、部屋で待っていたマギステル卿と共に用意された昼食に手をつける。
 ちなみにピクシーも今頃台所で食事を失敬していることだろう。
 お腹がすいていので、さっそく塩味の揚げじゃがいもをもぐもぐと頬張る。
 下ゆでされたじゃがいもと一緒に揚げられた枝つきのローズマリーはやさしい歯ごたえと香ばしい風味でとても美味しい。
 自然と頬が緩むエリーゼだったが、ここにいない人物について尋ねることにした。
「フリードリッヒさんとミハエルは?」
「陛下と一緒に昼食をともにしているよ。ここは伯爵の領地だからね、さすがに国王の持成しを代理に任せるわけにはいかないだろう? ミハエルは伯爵の補助」
 確かにフリードリッヒ一人で国王と一緒にしておくと何があるか分からない。主にフリードリッヒが何を言うか周りは冷や冷やすること必至だ。
 マギステル卿は謹慎処分中であり、表立って動き回ることのできない身だから、おのずとミハエルがフリードリッヒの補助としてついて行ったのも分からなくはない。
「そう心配することもないと思うけどね。ああ見えて伯爵は世渡りがうまい。相手が陛下であろうとうまくやるさ」
「……、あの方がこの国の国王さまなんですね」
「うん。さっきはびっくりしてたみたいだけど…?」
「え? …はい。突然だったから。でも、やっぱり失礼でしたよね。あんなふうに不躾に見上げるなんて…」
「別に咎められなかったんだからいいんじゃない」
 マギステル卿の気楽な言葉に安心してしてエリーゼはパスタをフォークですくい口に運ぶ。
 いんげんとじゃがいものパスタはバジルのペーストで整えられたソースとからみあいいくらでも食べられる。
「気になっていたんですけど…どうやって私の居場所を見つけたんですか?」
 マギステル卿はなんだそんなことかと言いたげに視線を自分の影へと落とす。
「出てきてもいいんじゃないの?」
 その言葉に反応するようにマギステル卿の影がかってにむくむくと起き上った。
「シャドウ!」
〈―…ハイ…―〉
「シャドウがマギステル卿を案内してくれたの?」
 ゆらゆら揺れているマントを流したままにしてシャドウは小さく頷いた。
〈―…途中マデハアノ炎ノ男ヲ追跡シマシタガ…、アル程度マデ接近デキレバ、アトハ貴女ノ痕跡ガアリマシタノデ…―〉
「ありがとう」
〈―…イエ、ソレヨリモ…―〉
 シャドウはフードの奥から静かにエリーゼを見据えると言った。
〈―…次カラハ、…―〉
「うん?」
〈―…一言クダサイ、ソレカラ行動ヲ、心配シマシタ…―〉
 エリーゼは照れたように笑った。
「うん。わかりました。心配してくれてありがとう」
 その言葉に納得したのか、シャドウは空気に溶けるように消えた。
「驚いたね…」
 手を動かすのを止めてマギステル卿は稀なものを見たというように首を振った。


  

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