v i t a

汝、その薔薇の名

9.花嵐 2


 亡霊よりも恐ろしいと言われる笑みを浮かべて、フリードリッヒは公爵の使いに会った。
 宰相からの使いよりもこちらの方が厄介だ。フリードリッヒは常々そう思っていた。ウィンザー公は、ただの公爵ではない。
 ファルツ伯爵家と同じ、ヴィルバーンでも有数の名門貴族の現当主である。しかもウィンザー家はファルツ家よりも権力の中枢で続いてきた家系である。
 貴族社会で長きにわたって存続し繁栄してきたということは、権謀術数に優れているということだ。 その現当主であるウィンザー公は宰相と同じく国王の片腕といわれている存在なのだ。
 その意味をフリードリッヒは嫌というほど理解している。
 宰相が政治中枢で国内を纏める右腕ならば、ウィンザー公は社交戦略において国内を網羅する左腕といえるだろう。
 なにより厄介なのは、ウィンザー公がフリードリッヒと同種の人間だという事だ。
 宰相はいい。
 国王の右腕は頭は切れるが基本的に穏健な人柄である。
 野心ある若者だった頃とは違い、現在は家族を持ち、老年になり、随分人が丸くなったと誰もが認識している。
 周りの印象がどう変化しようと、中身はまだまだ食えぬ狸だが、いい傾向だとフリードリッヒも思っている。
 だが、国王の左腕は違う。
 あれはまだ若く、自分と同じように歴史ある一族の当主なのだ。
 それ即ち、一族の闇に塗られた歴史の重みを背負うという事である。
 大きすぎる一族を背負う者は、時に自らの感情を殺し、冷酷にならねばならない。近しい者であろうと表情一つ変えずに、いつでも切り捨てられるはず。それと同時に一目見て分かった。あの公爵は自分と同じように、人間を正確に区分している。利用できるものとそうでないもの、自分に害をなすものなさないもの。
 常に計算し、一歩先を考え続けている。
 ウィンザー公は一見して好青年に見えるが、その実、宰相よりも手強い相手なのだ。
 心してかからねば足元をすくわれるだろう。
 ウィンザー公の使いはやはりよく教育されていた。
 フリードリッヒを見ても態度を崩さず、公爵の使いは「我が主は国王陛下より祝辞を賜っている為、是非こちらにお伺いしたい」と口上にのせた。
 フリードリッヒは頷きつつ「近々王宮の一角にある我が家の屋敷で、娘の披露を致しますのでその時に是非」と返した。
 上辺だけは双方共穏やかに受け答えをしたのだった。

 ヴィルバーンの王都アスタインは、堅牢な三重外壁に守られている。 その中に市民の家が立ち並び商人が店を出し、人々が行き交う活気に溢れた街がある。 街の中には更に内壁が造られており、国王の住むブルク城へと続いているのだ。
 高台の上にあるブルク城の足元には、貴族たちの住む屋敷が順に並んでいた。
 身分の高い者や国王の重鎮などには、ブルク城により近い場所の屋敷が与えられている。
 ファルツ伯爵家もその例に漏れず、ブルク城のお膝元に屋敷を賜っていたのだが、何しろ代々俗世にまったく見向きもしない筋金入りの一族である。その屋敷を放り出して王宮から離れた郊外(つまり外壁に近い所)に館を造り、そこに居座った。
 それに頭を抱えたのは周囲の者たちであり、代々の国王だった。国王からの栄えある贈呈物を「いらない」といったも同然だ。普通なら無礼千万と罵られても仕方がないのだが、代々のファルツ伯爵は素知らぬ振りをして飄々としているのだ。
 歴代の国王たちは、それでも爵位を取り上げて辺境へと左遷する事はしなかった。
 地位や名誉、どんな褒賞にも興味を持たない一族の識者たちを手放す事は、どうしても出来なかったのだ。その為、ファルツ伯爵家の屋敷は贈られた当時から人が住んだ事は一度もなかったのだが、ここに来て主人を迎える事になった。
 何事もどうなるか分からないものである。
 放置されていた屋敷には何十人もの召使たちが出入りして、分厚く溜まった埃を払い、色あせてしまった床や壁を塗りなおし、柱や窓をごしごし磨き、屋敷中を隅々まで掃除した。
 懸命な清掃の効あって、どんよりしていた屋敷は優美な外観の佇まいに変容を遂げた。
「見違えたな」
「召使たちの涙ぐましい努力の賜物だ」
 ミハエルは何時も着ている簡素な服装ではなく、上等の上着を盛装し、腰に帯剣をしていた。長い前髪も後ろに流して揃えている。一見してどこかの子爵といった見掛けである。
 ミハエルの横に立っているフリードリッヒも、今日は少しばかり洒落た装いだった。
 しかし、フリードリッヒの場合は見掛けが見掛けなので、亡霊がお洒落しているようにしか見えない。
 慣れているミハエルは動じないが、招かれた貴族たちは挨拶をしに来ても一瞬顔が凍りついている。場慣れしている筈の貴族たちを有無を言わさず氷付けにする屋敷の主人は、にまっと笑う。
 その笑みを直視してしまった者は数歩ほど後退った。
「驚くぐらいなら近づいてこなければいいものを、うっとおしい」
「いや、驚いてるんじゃなくて、怖がっているんだ」
 対外向けのにこやかな愛想笑いを浮かべたままミハエルは冷静に指摘した。
 現在ファルツ伯爵家の屋敷に造られている庭園を開放し、主だった貴族たちを招待した社交集会を開いている真っ最中だった。
 こういうことは大の嫌いで知られているフリードリッヒだったが、やって出来ない事はない。
 招待された貴人たちはフリードリッヒと面会できる滅多にない機会である。熱の入れようは当然の事だった。
「それで? この社交集会の主役は一体何処で何してるんだ?」
「うむ、先程召使たちに首根っこを捕まれて連れて行かれた。準備をしているのだろう」
「………君の家の召使たちも随分と逞しくなったな…」
「我輩の娘と付き合うにはこれぐらいで丁度いいのだと学んだのだろう」
 ミハエルは規格外の主人とその養女になったこれまた手を焼く少女の世話を焼く召使たちの気苦労を気遣いそっと視線を逸らした。

 当のエリーゼといえば、侍女たちに風呂に入れられて入念に磨かれていた。
 辟易としながらも長い髪を何度も梳られて顔やら手やら足やらを擦られて、やっと終わったというので部屋に戻ろうとしていた所を、待ち構えていた召使たちに首をつままれた猫のように捕獲されたのだ。
 フリードリッヒが偶然目撃したのはその場面である。
 そこから更に種類の違う油分をふくむ液体を顔に塗りたくられ、その上から白粉を塗され化粧を施された。
 顔を担当する者とは違う召使がエリーゼの爪を磨き香水を選ぶ。
 その間に他の召使たちがドレスを部屋へと持ち込み、化粧が終わったと同時にエリーゼの着せ替えにとりかかった。
 エリーゼの胸元には目立つ痣があったので、侍女たちは首もとまで覆うドレスを用意していたが、そのドレスにしても刺繍一つ一つが細緻にわたる代物だった。
 全てが終わった後、鏡の前に立つ美少女に召使たちは息を飲んだ。
 自分たちが装わせたのだが、その出来栄えに誰もが圧倒されたといっていい。
 美の女神ロディアーテの祝福を一心に与えられた者がそこに存在していた。
 顔立ちは整っているが、どこか垢抜けない娘はもう何処にもいない。磨き抜かれたエリーゼは大変美しかった。
 もう二、三年もすれば、傾国にも勝る美姫に成長するだろうことを予感させる華やかさと儚さを併せ持つ雰囲気を漂わせる美少女に、誰もがうっとりと見入ったが、エリーゼの「このドレス窮屈ですね。もっと、こう、動きやすいのってないんですか?」という言葉に一気に脱力した。
 装いが変わろうと変らまいとエリーゼは、エリーゼだった。
 痛むこめかみを押さえつつ、召使たちはエリーゼをフリードリッヒの元へと先導した。立派である。

 渦を巻いたような形パン。バターや卵をたっぷり使ってサクサクとした食感の生地のパン。バターを何層にも折り込んだパン生地の菓子、レーズンやデーツなどのドライフルーツを混ぜて焼き上げられたビスケット。
 砂糖衣を垂らしたスコーンには、ジャムやクリームが添えられている。
 ブルーベリーやクランベリーの干し果物、ナッツ類も置かれ、その横には果皮で香りをつけたレモンパイ、甘く煮た果実を詰めたアップルパイののった皿が並べられている。
 菓子や紅茶がのった隅に模様が施されたテーブルを囲む貴人たちが談笑に耽るが、ちらちらフリードリッヒが居る方を見るのは、噂の養女が何時登場するのかという好奇の現れである。
 招待客の最後の一人がやってきた。
 その人物が登場すると庭園の人並みが一際さざめいた。ウィンザー公のお出ましだ。
 灰色混じりの剛毛に鈍色の瞳。逞しい総身を上等な生地を使用した礼服で覆っている。
 見上げるほどの長身で大柄だが、親しみやすい笑みを浮かべた好青年ぶりだ。
 視線を一斉に浴びながらウィンザー公は堂々とした足取りでフリードリッヒのところへやってきた。
 案内してきた侍従はフリードリッヒに目礼すると園内の人込みに紛れた。
「お久しぶりですファルツ伯。お招きありがとうございます」
「ご丁寧に。こちらこそお忙しいなか来て頂けて光栄ですよ」
 ヴィルバーンの名門貴族の当主同士の対面に誰もが釘付けだ。
 しかし、どれ程の視線を浴びようともウィンザー公もフリードリッヒもびくともしない。彼らにとって視線を浴びる事は当然の事であったし、これぐらいでびくつくようでは一族を率いる当主などやっていられない。
 フリードリッヒの亡霊のような笑みもウィンザー公には流石に通用しなかった。
「この度は養子をとられたとか」
 一歩引いたところで二人を見守っていたミハエルは内心「来たな」と気を引き締めた。
 フリードリッヒは相変わらずの笑みを浮かべたままだ。
「陛下も驚いてらっしゃいましたが、喜ばしい事だと祝辞を賜っております」
 ウィンザー公の後ろに控えていた従者が、その言葉と共に持っていた品を恭しく差し出した。


  

Image by tbsf  Designed by paragraph
inserted by FC2 system