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汝、その薔薇の名

9.花嵐 4


 寄ってきては引っ切り無しに話しかけてくる貴人たちを上手く躱し、お披露目にと用意された舞台を乗り切ったエリーゼは客人が帰るのを見送る。
 フリードリッヒが警戒していたウィンザー公も「ではまた」という言葉と共に優雅に踵を返したので、やっと心持ち落ち着けた気がする。
 にこやかな笑顔を浮かべて立っていたエリーゼはゆっくりと近づいてくる青年に目を向けた。
 歩くたびにリボンで一つに結んである長い銀髪が月光のように光を反射させている。
 銀髪の麗しい青年の視線はエリーゼに向けられていたので、目の前に来られれば無視することはできない。
 エリーゼが膝を軽く折ると青年はゆるりとした生ぬるい笑みを浮かべた。
「父の代理として出席しましたが、貴女のように美しい姫君にお会いできたのは思わぬ幸運でした。今日はとても楽しい時間を過ごさせていただきましたよ」
「そう言って頂けると嬉しゅうございます」
「今後とも是非親しくお付き合いさせていただきたいものです」
 そう言って「お手を拝借しても?」と首を傾ける青年にエリーゼは頷いて網目レースのついた手袋に包まれた右手を差し出す。
 その華奢な手をとり優雅に口づけを落とした青年は、去り際にそっとエリーゼの耳元で囁いた。
「…アイク伯にはくれぐれもお気を付けを」
「え…?」
 振り向いたエリーゼに青年は背中を向けたまま去っていった。
 警戒を促す言葉を残していった不思議な美青年に、きょとんとしていたエリーゼはフリードリッヒに声をかけられて我に返る。
「アルト・ハイデルと何を話していたのかね」
「あの方はアルト・ハイデルという名前なのですか」
「モンテナ公の末息子だ。と言っても上の子供二人は既に鬼籍に入っているから事実上の公爵家の後継者だがね。色々と油断できない子息ではあるな」
「それはどういう意味でしょうか?」
 周囲を見渡せば既に客人はおらず、召使たちが後片付けを始めている。それを見てとりエリーゼを屋敷の中へと促しながらフリードリッヒは口を開く。
「今現在ヴィルバーン国内は安定しているが、その裏で宮廷では二つの派閥が存在している。国王派と反国王派だ。勿論、敵対するものには容赦ない国王に知られれば、生きて明日の朝日が拝めぬことは知れたこと。反国王派も馬鹿ではないので、なりを潜めて尻尾をつかませぬようだが存在しているのは確かだ。おそらく国王も認知はしているだろう」
「認知しているならばなぜ取り締まらないのですか?」
「証拠がない」
 フリードリッヒは居間に入り、椅子に座るようエリーゼを促した。
 エリーゼが腰かけたので、フリードリッヒは通りかかった侍従にティーセットを用意するよう言いつけると自らも椅子に腰をおろした。
「証拠、もしくは決定的な言動…この場合は国王に反旗を翻すという意味での反乱がなければ国王とはいえ貴族を牢には繋げれぬさ。無慈悲と恐れられてはいるが現実主義のあの国王のことだ、利益不利益を鑑みて高い公算がなければ動かぬよ」
「その派閥争いがあの方とどう関係が?」
「その反国王派に組する主要人物の一人がモンテナ公だと噂されている」
 大きな窓からガーデンテラスが見える今にフリードリッヒの淡々とした声が広がった。
「あくまで噂の域を出ないがね。反国王派のリーダーはアイク伯とされているが、モンテナ公も国王側からマークされている」
 エリーゼは眉をよせた。
「それは変ですね」
「変?」
「はい。だってあの方、私にアイク伯に気をつけるようにと忠告されたんですよ」
「ほう…?」
 無表情だったフリードリッヒが興味を引かれたように唇をつり上げた。
「それは変だな」
「はい。どう考えても変です」
 真面目な顔でエリーゼは「それと…」と付け加える。
「あの人、呪われてます」
 フリードリッヒはニヤリと笑った。
「どうやらその《心眼》とやらは高性能の嘘発見器以外にも機能があるのだな」
 ノスタルジアから帰ってきてからフリードリッヒはエリーゼの《心眼》について色々と調べてくれている。
 自分のことなのにどういった代物なのか分からないというのは少々心もとない。養い親に聞くのが一番早い気がするのだが、コルスタンは遠い。故に博識なフリードリッヒに尋ねた。
 結論からいえばフリードリッヒは《心眼》を知っていた。しかし、そのその詳細な情報と能力は知らなかった。
 フリードリッヒがいうには《心眼》は遥か古の時代に伝わっている伝説であり文献にもほとんど記載されていないらしい。
 調べるにしても時間がかかるとのことなので、エリーゼは気長に考えることにした。
「人一人が呪われているのに驚かないんですね」
「アルト・ハイデルに関してはな」
「もしかして知ってました?」
「さて、我輩は目に見えぬものを視ることは出来ぬ。しかしながらあれについては…、なんとなく勘でな」
 召使たちが室内に入りティーセットの用意をしている間、フリードリッヒは何事か考えるような仕草で庭を見つめていた。
 室内に二人きりになるとフリードリッヒは視線をエリーゼに戻す。
「あれによくないものが付き纏っているのはなんとなくわかる。だが、今はまだ害はない。それに、あの男は自分が呪われているのを知っているよ」
 紅茶に口をつけようとしていたエリーゼは顔を上げた。
「これも勘だがね」
「あの方に話しかけられた時、ちょっと不思議な感じがしたんです。誰かに似てるなって…。今わかりました。あの方はフリードリッヒさんに似てるんです」
「我輩に? 容姿は全く正反対だと思うがね」
「外見のことじゃないんです。動というよりも静。陽というよりも陰。そんな風になんというか、雰囲気が似てるなって」
「ふむ。その印象は間違ってはおらぬかもな」
 達観にも似た影を表情に落とし、フリードリッヒは指を組み背凭れに沈む。
「呪いに関しては放っておいても問題はなかろう。いずれ時間が経てば解決するだろうさ。ただし、アルト・ハイデルに関わるつもりならば、その背後にあるものには気をつけなければ厄介だぞ」
「関わるつもりはないんですけれど」
「あちらは何故か関わる気満々のようだったが」
「それは否定できないかも…」
「いずれにせよこうして我輩の娘として世間に知れた以上は、宮廷の問題とも折り合いをつけなければならぬな。覚えておく事にこしたことはない知識はまだまだある。また明日から勉強会だな」
「結局そうなるんですね…」
 またフリードリッヒに容赦なくびしばし扱かれるのかとエリーゼは肩を落とした。

 ファルツ伯爵家の屋敷での社交集会はつつがなく終了し、屋敷は片付けられ元の静寂を取り戻した。
 エリーゼは見事、完璧な淑女を最後まで演じ切り、世間にファルツ伯爵の養女として認められた。
 舞台を無事終えた屋敷から元の王都郊外の館へと移動し、フリードリッヒらと共にエリーゼはいつもの毎日に戻った。
 しかし、目に見えないだけで事態は水面下で急激に動き出していた。
「え? 国王陛下が?」
 社交集会から三日後、エリーゼは朝食の席でいきなり告げられた言葉に驚いた。
「どういうことですか? 何故、国王陛下が私と会いたいなんていってきたんです?」
「我輩にもわからん」
 フリードリッヒは目の前に置かれたサラダをフォークで突きながら息を吐いた。
「分からんが拒否も出来ん。君命として正式な使者が来たのだ」
 エリーゼは不安げにフリードリッヒとミハエルを見た。
 この三人はいつの間にか毎日朝食を一緒にするようになっていた。今日もいつものように朝の挨拶を交わそうとしたエリーゼを遮り、フリードリッヒが念仏でも唱えそうな小声で言い出したことが発端だった。
「ウィンザー公が何か言ったんでしょうか?」
「この前の社交集会のことでか? まさか、君は何処からどう見ても淑女にしか見えなかったよ。難癖をつける隙はなかった筈だ」
 エリーゼはテーブルに置かれた茹でたライス・プティングに目を輝かせていたのだが、話を聞くうちに死んだ魚のような目になっていく。
 新鮮な牛乳と米を柔らかくなるまでとろ火で煮て、卵とバーターを加えて冷まし、砂糖と塩、ナツメグと少量のシナモンで味付けしたのだろう。おいしいご飯を食べるとエリーゼは嬉しくなる。気分も上々だ。
 しかし、今日はいつものような楽しい気分が遠くで手を振っているような気がする。
 おいしいのに…。ご飯はおいしいのに…。
 顔色は優れないが、もりもり朝食を摂るエリーゼにミハエルはミルクを飲みながら何気なく言った。
「もし不安なら、私がついて行こうか?」
「え? でも……」
「うむ、そうしてくれると助かる。我輩は別件で宰相に呼ばれているのだ」
「……なんだと?」
 ここでやっとミハエルは顔色を変えた。
 ミハエルの言いたい事を悟ったようにフリードリッヒは小さく頷いてエリーゼを一瞥した。それに頷き返しエリーゼを安心させるようにミハエルは笑った。
「…そうか、ならやはり私がついて行こう」
「はい、ありがとうございます」
 肝の据わっているエリーゼだったが、流石にいきなり自国の国主に会いに王宮へ一人で行くのは躊躇われたらしい。
 ほっとしたようにエリーゼはお礼を言った。
 そして朝食をいつものように消費していく。
 エリーゼは一人前はぺろりと食べてしまうのだ。それも幸せそうに食べるから料理人としては腕の振るいがいがあるだろう。その為、いつの間にかエリーゼは台所の料理人たちと仲良くなっていた。
 エリーゼは華奢な体形に似合わずよく食べる。どこにそんなにため込んでいるのだろうと誰もが思うが口にはしない。
 それがファルツ家の食事風景として定着してしまったからだ。


  

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