食事の後、すぐさま支度で整える為に召使たちに連れられてエリーゼは自室へと消えた。
扉が閉まるとミハエルは顔を強張らせてフリードリッヒに尋ねた。
「本当に宰相に呼ばれているのか?」
「うむ、まったくどういうことかな。示し合わせているとしか考えられないが」
「君命を受けたなら君に断る事は出来ないのに? そうまでしてエリーゼを国王の元へと向かわせたいのは何故だ」
「その理由が分からないから困っている」
ミハエルは盛大に溜息をついた。
「困っているなら困っている表情を作ってくれ」
「見えないかね?」
「まったく見えない」
ミハエルはすっぱりと言い切る。
「こういうときにこそマギステル卿がいてくれれば…」
「彼は謹慎中だぞ」
「…ほいほいここに遊びに来ていたのは見間違いか?」
「遊びではない。エリーゼのレッスンのためだ。…とはいえノスタルジアで国王と遭遇してしまったからな、彼なりに自重しているのだろう」
「肝心な時に役に立たないな…。私がついていくのはいいが具体的にどうすればいいんだ? 付き添いはできるが抑止力の効果は期待できないぞ」
「手荒な真似はしないと思うのだが…、まあ、向こうの出方次第だな。エリーゼに心のゆとりができればいいのだ」
「…わかった」
ミハエルと話し終えたフリードリッヒは手早く支度を済ませて馬車に乗ると先に王宮に出発した。
その後を追いかけるように支度の出来たエリーゼとミハエルは馬車に乗り込んだ。
二頭立ての馬車が舗装された道を進んでいく。
栄華の頂点に達したヴィルバーンの王都アスタインをこうして見ることになるのは、感慨深いような今更のような変な感じがする。
王都に来てからというもの、エリーゼの生活空間はフリードリッヒの館を中心としていたからだ。
エリーゼは馬車の窓から過ぎていく景色をそんな事を考えながらぼんやり見つめた。
住宅街の通りはあらゆる行商人の売り声でにぎやかだ。
都市の住民はほとんどの場合、日常の買い物に街頭商人を利用している。
食品や日用品を手に入れたり、いろいろな仕事を頼んだりするのだ。
例えばパン屋はたいてい午前八時から九時の間にベルを鳴らしながら「ほっかほかのパンだよー!」と声をあげて自らの登場を知らせる。
同じくらいの時間にミルク売りの女の子も現れる。
ミルク売りの一日は早朝午前四時から六時の間、王都内および近郊で飼われている牛の乳搾りから始まる。そこから午前十時近くまで配達圏内にある家へとミルクを配達するのだ。
毎朝ミハエルが飲むミルクも今日エリーゼが食べたライス・プティングに使用されていたミルクも、彼女たちが配達してくれてた新鮮なミルクだ。
ミルク売りとパン屋が登場するやいなや、たちまち街頭にはさまざまな物売りが出現する。
手押し車に木炭ストーブを取りつけた女性が売っているのは焼きリンゴや茹でたリンゴだ。また、バンドボックス売りが竿の先端に商品をぶら下げて売り歩いている姿もある。
ロバの背中に袋を積んで売り歩いているのはレンガくず売りだ。
他にも床掃除用の砂、生きているウサギ、ネズミ取り、カゴ、魚などを売っている者、花売りの少女と様々だ。
物売りの他にも職人も街頭で商売をしている。
「椅子の直しー!」という声はどこの町に行っても聞こえてくるのだとエリーゼは知った。
馬車の揺れでもわかることだが王都アスタインの道は整備されている。コルスタンの道は舗装されてなんていなかった。
コルスタンではただ人の通る場所を足で踏んで固めただけの道が自然の景色の中にあるだけだ。
広い森と淡い青空を見たのは今から一月ほど前のことだ。
まだマルティウスの月始め、通りすがりの木の芽は柔らかく膨らみ、永久の森の入り口からは遠目に領主の館が見える。
畑の手入れや葡萄の木の手入れをする農夫、犂を牽く牛、籠を頭の上にのせて草道を談笑しながら歩く女たちや子供のはしゃいだ声。
毎年のように繰り返されるのんびりとした時間。それがコルスタンの情景だ。
エリーゼはそれを遠くから見ていた。
森の空地に積んである薪を見てエリーゼは農村の早春を毎年感じてきた。
今年はその実感が薄い。それを見る前にコルスタンから王都へと連れてこられてしまったからだろう。
めまぐるしい時間の流れがエリーゼの身の内を一気に駆け抜けていったような気がする。
闇商人に捕まって王都で目覚めた。奴隷と売られるはずだったのに何故か伯爵家の養女になる事になった。
伯爵の領地で出会った迷子の妖精と盗賊に扮した他国の王位継承者。このヴィルバーンの玉座に君臨する国王との思わぬ邂逅。
そして今現在、何故かその国王にもう一度会う為に馬車の中にいる。
あの強い眼差しを持つ荒野の鷹のようなこの国の国王を頭の中で思い浮かべてエリーゼはぶるりと肩を震わせた。
あの国王を怖いとは思わない。
ただ、あの国王の鋭い眼差しを向けられて自分の心の中に湧き上がる見知らぬ感情が、……少しだけ怖いと思う。
まるで早鐘のように高鳴る心臓と沸騰した熱湯に思わず触ってしまった時のようにじわじわと広がる熱。
今までに感じたことのないようなもやもやとした感じはまるで霧の中で迷子になってしまったようだ。
だから王宮へ行くことになって心臓が少しどきどきしている。
フリードリッヒとミハエルと出会ってから、わくわくしたり驚いたりすることが沢山あった。
慌ただしく流れた時間は長くも感じられたし短くも感じられた。
エリーゼは育ての親や永久の森の妖精たち、そしてコルスタンの人々やアーノルのことを思い浮かべた。
彼らは元気にしているだろうか?
思い出に浸っていたが速度を落とした馬車から菓子売りだろう男の子が持つ籠の中に色とりどりの紙で包まれた卵が見えた。
それに目を奪われて思わず「あ…」と声を零したエリーゼにミハエルが気づく。
「どうしたんだい?」
気恥ずかしさに口ごもるエリーゼを不思議そうに見てミハエルは窓の外に視線を向ける。アスタインのいつもの光景だが…。
エリーゼの視線をたどり「ああ」と納得したミハエルは小窓を開けて後部に設けられているデッキに居る御者に馬車を止めるように伝えた。
丁度道が混雑しており、速度が遅くなっていたので馬車が止まるのは早かった。
ミハエルはエリーゼが呼びとめる間もなく馬車をいったん降りると菓子売りへと近づきいくつかの買い物を済ませて戻ってきた。
また動きだした馬車の中でミハエルはエリーゼに手を出すように促した。
手の中に転がる卵に目を見開くエリーゼにミハエルは朗らかな笑みを浮かべる。
「そういえばもう復活祭の時期なんだよな」
「…はい」
冬期が終わり農作業が再開されるファブリアスの月終わりからマルティウスの中月までの間の最初の満月の次の日は復活祭と呼ばれる移動祭日である。
母なる大地の大いなる女神フリーグの目覚めを祈るこの祭りの前兆なのが、春の女神が運んでくる花嵐だ。
毎年、この時期になるとコルスタンでも大母神の祝祭を誰もが心待ちにしていて、花嵐が来るのを待って復活祭の準備が始まる。
エリーゼはみんなが楽しそうにしている復活祭に参加したことがない。
羨望の眼差しで遠くから見ることしかできなかったが、アーノルが復活祭の卵を毎年くれたので寂しくなかった。
菓子売りの男の子が持っていた復活祭の卵を見て、自分がいかにそれを楽しみにしていたのか思い知ったのだ。
今年はもう貰えないのだと思ったら心の真ん中にぽっかりと穴があいたような感じがしたエリーゼだったが、掌の中でころころと転がる色紙に包まれた卵に胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます」
本当に嬉しそうに笑ったエリーゼの頭を撫でてミハエルも微笑した。
あの日、あの時、マクの家へと向かわなければエリーゼはコルスタンで今年の復活祭を永久の森から見ていたはずだった。
だが、エリーゼは今ここにいる。
目が覚めた場所が王都だと知った時、エリーゼは逃げ出す事も出来たのだ。
エリーゼにはそれが出来る。
誇張ではなく、純然たる事実だと自分自身で知っている。しかし、エリーゼはそれをしなかった。
ここが王都だと知ったとき、何よりも先ず、育ての親の言葉が脳裏を過ぎったからだ。エリーゼが幼い頃から得体の知れない老婆だった。
口ではああだこうだと言いながら、それでも自分を見捨てずに育ててくれた人だった。
その育ての親が昔何気なくいった言葉が、ずっと脳裏から離れなかったのだ。
人の世界は、川と同じさ。
流れが穏やかなときもあれば大雨で突然氾濫する。
何時も同じ方向に流れていくわけでもなく、日照りが続けば水がなくなってしまう。
それでも魚は川で生きる。そこが魚の在るべき場所だからだよ。
何時ものように鍋釜の前に陣取り、匙を手に持った老婆は淡々と言った。
ここには怒りもなく、苦しみもなく、悲しみもない。
人の世の煩わしき争いから切り離された時が緩やかに流れる妖精の世界だ。
お前にとってどれ程居心地が良かろうと、お前は何れ在るべき場所へ戻るだろうよ。
そこがたとえ――――……
「―――…たとえどれ程苦難に満ちた世界であっても……」
ぽつりと零したエリーゼの呟きは、あまりにも小さすぎて目の前に座っていたミハエルにも届かなかった。
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