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汝、その薔薇の名

9.花嵐 6


 貴族の若い娘たちは宮廷で国王に拝謁すれば社交界と結婚市場への参入を認められたことになる。
 拝謁を終えた貴族の娘は次から次へと舞踏会やパーティに出かけて行き、自分と同じ階級の独身男性の中から適当な結婚相手を見つけようと腐心する。
 結婚が決まれば、自分の立場が変わることを君主に正式に報告するために再び拝謁することを許される。
 宮廷での拝謁をすませていない年長の女性は、拝謁をかなえてくれる保証人を見つけてなんとか国王に拝謁し社交界へとデビューしようと奮闘するのだ。
 宮廷拝謁の推薦者を探す場合、拝謁経験のある女性ならば誰でも推薦者になれるが、推薦者である女性の地位は高ければ高いほど良く、評判も良ければ良いほど好ましい。
 ただし、推薦者をお願いする場合、親戚以外の人にお願いするのは非常に僭越な要求をしていることになると肝に銘じなければならない。
 養子縁組が成立し貴族の娘となったエリーゼにも当然だが、国王へ拝謁する権利が発生する。
 エリーゼの場合、ファルツ伯爵家の養女となったので後見人はフリードリッヒである。
 奇人変人と言われているフリードリッヒではあるが貴族社会での地位はかなり高いので、エリーゼが注目されるのは当然の成り行きであり、本来ならばレディ・アテルダが適任ではあるが、フリードリッヒの要望によりミハエルに付き添われて宮廷へと参内するとここなっても不思議ではない。
 たとえそこにどのような思惑が隠れていようとも、世間的には貴族の若い娘の慣例でまかり通るのだ。
 馬車を降りたエリーゼとミハエルは、宮殿の正面階段を上ってブルク城へと参内した。
 階段の上で畏まって待っていた案内の侍従はエリーゼを見るとその美貌に軽く目を見開いたが、直ぐに何事もなかったように表情を作った。流石に国王の近くに仕える者である。
「侍従長だ。陛下の側近の一人だよ」
 案内されながら廊下を歩く。ふと、ミハエルがエリーゼに小声で注を加えた。
 エリーゼは小さく頷いた。
 確かにすれ違う他の侍従よりも着ている服は上物だし、きびきびとした動きの侍従長に侍従たちは頭を下げている。
 伯爵家の養女となったとはいえ、小娘を態々侍従長に案内をさせるとはその待遇の良さに逆に警戒心が湧く。
 エリーゼも気を引き締めてブルク城の内部へと足を踏み進めた。
 城内の広く長く続く廊下は半円アーチと片蓋柱、円形装飾によって構成されていた。
 両壁には波打つような曲線と繊細優美な彫刻が施されている。
 程なくして通された室内は客間のようだった。
 絨毯が床や調度品の線と調和し、優雅な空間を形作っている。観音開きの格子窓からは部屋に光がよく入るように設計されているのだろう。明るく上品な客間だ。
 案内してきた侍従長が鈴を鳴らすと、エリーゼたちが入ってきた扉とは反対の扉から女中たちがワゴンを持って入ってきた。
「こちらでお寛ぎください。拝謁の用意が出来ましたらお呼びに参ります」
 そう言って侍従長は退出していく。
 残った女中たちは一言も喋らずお茶の用意を始めた。
 エリーゼとミハエルが椅子に座り、紅茶を飲んでいるときも女中たちは立ったまま給仕をしている。何故だか監視されているようで居心地が悪かった。
 ミハエルもそう思っているのだろう、僅かだが不機嫌そうにしている。
 静か過ぎる室内に再び侍従長が入ってきた。
 用意が出来たのかと顔を上げたエリーゼに侍従長が話しかけてきた。
「申し訳ございません。まだ時間がかかりそうなので、もし宜しければ庭園をご案内するように言い付かったのですが」
 エリーゼは視線だけでミハエルに問う。
「私は結構だ」
「わたくしも…」
 結構です、と言おうとしたが侍従長に遮られた。
「美しい庭なのですよ、様々な種類の薔薇が咲き乱れていて」
 エリーゼは反射的に目を輝かせた。それを素早く確認した侍従長は穏やかな微笑を浮かべた。
「特にヴィクトリア王家の象徴ともいえます赤薔薇が育てられている庭園は壮麗でございますよ」
 エリーゼの「み、見たい…」という心情が瞳にきらきらあらわれている。
 ミハエルも今ではエリーゼの薔薇好きを知っている。苦笑して立ち上がった。
 一緒に行ってくれるのだろう。エリーゼが更に目を輝かせた時、扉を叩く音がした。入ってきたのはまだ若い近侍だった。彼は室内を見回してからミハエルのところへやって来た。
「ミハエル様でございますか?」
「そうだが」
「宰相様がお呼びになられております。ご一緒に来ていただけますでしょうか?」
 ミハエルは内心で大きな舌打ちをした。仕組まれている。だが、はっきりとした作為を感じながらもフリードリッヒのように高い爵位を持たないミハエルでは手の出しようがない。
 結局ミハエルは「わかった」と了承するしかなかった。
 少々心配げな視線を受けたエリーゼは「私は大丈夫」というように力強く頷いた。
 近侍に先導されてミハエルが退出すると、侍従長が「こちらです」とエリーゼを促した。
 案内された庭園はやはりと言うべきか雄大な規模と壮大な様式であった。
 美しく刈り込まれた芝生と四季折々に美しい花を咲かせるであろう花壇は左右対称に整えられている。
 遠くに噴水が見えた。複雑精妙な彫刻で装飾された噴水だった。曲線を描いて落ちていく水が軽やかな音を立てている。
「こちらは大庭園になります。王国主催の舞踏会が開かれますと、国内外より来られたお客様の為に開放されます」
 侍従長は貝殻を敷き詰めた石畳を歩いていく。エリーゼはその後ろからついて行った。
「あちらに見えるのが赤薔薇の庭でございます」
 古代風の柱が円周を描くように建っていた。曲屋根の装飾は全て神話をモチーフにした浮き彫りで埋められている。
 その小さな寝殿のような建物の周りに赤薔薇が咲き誇っていた。
 蔦を生やし、緑の葉を広げ、自らを守る為の棘を持って深紅の薔薇はどこまでも気高く蕾や花を咲かせている。
 静粛な雰囲気が立上り、まるでそこだけが周囲から切り離されているようだった。
「どうぞ、中へとお入りください」
 その言葉に釣られるようにエリーゼはふらふらとその庭園へと踏み込んだ。純度の高い薔薇の香りが漂ってくる。
 おかしなことに何故だか懐かしさがこみ上げてきた。
 一度も来た事のない場所なのに…、何故こうも胸の奥底がかきむしられる様な切なさとこみあげてくる懐古の情にかられるのだろう?

 ずっとここへ帰ってきたかった――…。

 エリーゼの心の奥底からそう何かが喜びの叫びを上げている。
 心中の奥深く、そこから湧き上がってくる感情の波がエリーゼを浸食し始めた。
 何か、何かだ。あと少しで何かを思い出せる。
 エリーゼが園内で陶然と立っていると不意に足元が暗くなった。
 正面に男が立っていた。男の影がエリーゼの足元を覆ったのだ。
 視線を動かせば纏う衣服の胸章が目に入ってきた。
 ヴィクトリア王家の紋章は赤薔薇だが、それとは別に歴代の王たちは自らの象徴としてそれぞれ独自の印章を持っている。
 片足に赤薔薇を絡みつけ、翼を広げる大鷹。
 その印章を身に着けることが許されているのはこの国でただ一人だけだ。
 恐る恐る顔を上げその男を視界に入れた瞬間、エリーゼを支配していた感情の波は一気に拡散し、冷や水を浴びせられたように自分の意識を取り戻す。
 一度見たら忘れそうにもない鷹のように鋭い眼光は藍色の瞳。
 漆黒の夜を凝縮したような暗さの髪を持っている精悍な顔立ちの男――ヴィルバーンの征服王。
 フォルデ・レオン・ディカルト。
 今にも燃え出しそうな熱のこもった瞳がエリーゼに向けられていた。
 狂おしいほどの情熱が一心にエリーゼに向けられている。
 エリーゼは目先に刃物を突きつけられているような気分になって息を飲んだ。
 エリーゼの揺れる深紅の瞳と男の研ぎ澄まされた藍色の眼光が交差した瞬間、薔薇の花弁が巻き上げられた。
 濃縮したような風が一気に吹き上がり、世界からエリーゼと男を切り離したような錯覚をおこす。
 花嵐だ。
 遥か遠く、西の果てからやってくる春の女神の吐息。
 甘い花の香りをその翼に乗せて風が舞い上がる。
 赤く、赤く、血よりも赤く。
 赤薔薇の花弁がエリーゼと男の周りを踊り、蜜より甘い花の香りが突風と共にエリーゼと男の間をすり抜けていく。
 春期に吹く季節風が花弁を舞い上げて去りゆくとそこには静寂しか残らなかった。
 舞い散る花弁がひらりひらりと落ちていき視界が鮮明になる。
 エリーゼは内心の動揺を隠して平静さを保ちつつ二、三歩後退するとドレスの端を持って一礼した。
「御無礼を陛下」
 じっとエリーゼを見詰めていた国王はその言葉に眉を寄せた。
「おい、お前……」
 国王は何か言いかけたが口篭った。
 エリーゼが半ば瞳を伏せて礼をとったままだったからだ。国王は苛立ったように舌打ちする。
「顔を上げろ」
「はい、陛下」
 それでやっとエリーゼと国王は対面した。
 国王の両眼はぎらぎらとしている。
 猛禽類のようだとエリーゼが思った眼光は健在で油断なくエリーゼを値踏みしている。
 エリーゼは緊張しつつもその野生の鷹の如き眼を正面から見返した。
 自分の眼光に怯まないエリーゼに国王は少しだけ瞳を揺らしたが、直ぐにその動揺を自制した。
「お前が、ファルツ伯の養女になったエリーゼだな」
「はい。そうでございます」
「お前の出身は何処だ」
「コルスタンでございます」
 出身地については事前にフリードリッヒと打ち合わせてある。偽るよりも事実を根本においておく方が良いとフリードリッヒが判断したのだ。
 用意しておいた答えをエリーゼは淀みなく言葉にした。
 国王の藍色の瞳が獲物を見つけた鷹のように、ぎらりと輝いた。
 急に大股で距離を詰めると国王はエリーゼの手を掴み引き寄せる。ぎょっとするエリーゼに構うことなく国王の顔が迫った。
 いくら国王といえども妙齢の女性に対してこんな扱い方は礼儀に反する。
 どうやらこの国王は礼儀作法を好まないらしいとエリーゼは眉を顰めた。
 息の掛かる至近距離まで顔を近づけると国王は地の底を這うような低い声で言った。
「お前が行方不明だった赤子か」
「は?」
「まさかとは思ったが…、お前が王女だったとはな。奇妙な偶然もあるものだ、なあ?」
 国王の言った言葉が理解できずエリーゼは困惑した。
 エリーゼがまったく事態を把握していない事に気づいた国王はエリーゼの手首を更に握り締めた。
 骨が悲鳴をあげて軋み、エリーゼは眉間にしわを寄せる。国王は嘲笑いながら痛みに顔を歪めるエリーゼを見下ろした。
 普段のエリーゼなら躊躇なく腕を振り払っていたが、それをしなかったのは偏に国王の瞳の所為だ。
 表情は傲慢にエリーゼを嘲笑っているのに、その瞳だけが悲しみに溢れてエリーゼを非難している。
 国王から向けられるちぐはぐな感情に、どう対応したらいいのか迷ったのだ。
「お前が覚えていなくても、もうそんなことは関係ない所まできているんだ。そうさ、関係ない」
 国王は自分に言い聞かせるように呟くともう片方の手をエリーゼの襟元に伸ばした。
「俺が知りたいのはお前が――…」
 エリーゼが声をあげる間もない一瞬の事だった。
 国王の手はぐっとドレスの襟元を握り締め、一気に胸元まで力に任せて押し下げたのだ。びりっと嫌な音がエリーゼの耳に届いた。
「お前が正当なヴィルバーンの王女だという証だけだ」
 透き通るような白い肌の上に赤い薔薇のような痣が浮かんでいた。


  

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