v i t a

汝、その薔薇の名

9.花嵐 7


 胸元を露にされたエリーゼが瞠目したのは一瞬だった。
 聖母のような慈悲深い微笑を浮かべたエリーゼは、にっこり笑って拳を作ると国王の横っ面を力の限り思い切って殴り飛ばした。
 国王は吹っ飛んだ。そう、文字通り吹っ飛んだのである。
 殴られた頬を真っ赤に腫らして気絶した国王に仰天したのは控えていた侍従長だった。
 自分の見たものが信じられないというように瞬きをして、何度も目を擦ってみたが、目の前に広がっている光景は夢でも幻でもなかった。
 赤薔薇の庭園の中にぐったりと意識を失って倒れている大の男である国王。
 そしてにこやかな微笑を浮かべながらも目が笑っておらず拳を握り締めて仁王立ちする可憐な少女。
 誰も動けない状況がそこにあった。
 だが、さすがに王宮に仕える侍従長。我に返った後の対応は迅速だった。
 近侍たちを呼び、くれぐれも内々にと厳重に言い含めてぴくりとも動かない国王を運ばせると、エリーゼを何とか宥めて王宮へと連れ帰ってきた。
 渋々と従ったエリーゼだったが、なんとそのまま軟禁されてしまったのである。侍従長に言いくるめられ珍しい果実に釣られた自分が恨めしい。
 あの柔和さに騙された。
 エリーゼの中で侍従長が要注意人物になったのはいうまでもない。

 白地に金の曲線的装飾が室内の建築構造を覆い隠し、愛の物語を描いた絵画や可愛らしい天使たちの浮き彫りで埋められている。
 軽快で居心地の良い空間を作り出している構造は全てこの部屋の主のためだ。
 この部屋はこのブルク城において最も高貴な女性の為だけに用意されたものである。即ち王妃の間である。
 その部屋に用意されていた長椅子に腰掛けているエリーゼは、室内に施された浮き彫りの天使のような笑みを浮かべていたがその深紅の眼光は爛々としていた。
 はっきり言って怖い。
 顔が笑っているが眼が怒気を顕わにしていて迫力がある。憤懣遣る瀬無いといわんばかりだ。
 茶菓の用意を済ませた奥付きの侍女たちも部屋の主の機嫌が宜しくない事を悟り、そそくさと室内を後にした。
 エリーゼの目の前に椅子に座り、天鵞絨張りの背凭れに身体を預けて笑いを堪え過ぎて引付をおこし掛けていたフリードリッヒは、侍女たちが居なくなると同時にとうとう堪えきれずに笑い出した。
「そ、それで何かね…。君は陛下の横面を殴り飛ばしたのか! しかも拳でっ」
 ぶすっとエリーゼが膨れっ面を作ってフリードリッヒを睨む。
 肯定したも同然の表れにフリードリッヒは益々笑いを深くした。
「しかし、一緒に暮らしていたのに我輩まったく気づかなかったぞ。君はずいぶんと怪力の持ち主ではないか」
 腹を抱えて大笑いするフリードリッヒに、エリーゼは苦りきった顔でそっぽを向いた。
「別に隠してたわけではないですよ。ただ、人前で使うような特技ではないでしょう?」
「確かにそうだがね」
 くつくつ笑うフリードリッヒは御馳走を前にした猫のように目を細めた。
「しかし良かったのかね? その隠していた特技で陛下を殴り飛ばしたりして。一歩間違えば不敬罪だぞ」
「ですから隠していたわけではないのに…、もう。先に不敬を働いたのは国王の方です」
 エリーゼは鼻息荒く、ふんっと鼻で笑うと、一転してにっこり笑った。
「それに大の男の方である国王陛下が触っただけで折れて吹き飛ぶような外見の小娘に殴り飛ばされて、あっけなく気絶してしまったなんて口が裂けても言えないんじゃありませんか?」
 そう言ってエリーゼは「ほほほ」と優雅な笑い方で締めくくる。
 フリードリッヒもにまにま笑って同意した。
「マギステル卿を教師につけた成果が出てきたようでなによりだ」
 自分の利点を認識してそれを最大限に利用すること。それがマギステル卿の口癖だった。
 ミルクと砂糖をたっぷり入れた温かい紅茶を口に含むとエリーゼは少しだけ表情を和らげた。
「さてと。それで、何故こんな事になっているのか説明していただけるんですよね?」
「うむ。その為に我輩が来たのだ」
「その割には時間が掛かりましたよね」
 フリードリッヒは眉間に指を押し当てて苦笑した。
「七日間も軟禁状態を我慢したんです。いい加減に状況を説明してもらわないと私にも限界というものがあるんです」
 にっこり笑っているがエリーゼは怒っていた。
 それはもう鬱憤が積もり積もってとってもぷりぷり怒っていた。
 国王の仕打ちの所為もあるが、あの後エリーゼは有無を言わさずこの王妃の間に連れてこられて「暫くの間ここでお過ごしください」と言われたきり国王側はうんともすんとも言ってこなかったのだ。
 説明を求めようにも、付けられた侍女たちは全員がエリーゼを敬い、一歩下がって接してくる始末で、さり気無く聞き出しても誰も現状を把握しているとは言いがたかった。
 エリーゼが国王の大切な客人――婚約者であると、それこそこちらが仰天してしまうような答えが返ってくる始末なのだ。
 恐ろしい事に侍女たちはそう認識しているのである。意味不明である。いったい何故そうなる?
 この部屋に軟禁されていた時から薄々おかしいとは思ってはいた。
 何か自分の知らないところで事態が動いている。
 しかし、出入り口である扉の外には常に衛兵が二人立っている。出入りできるのは奥付きの侍女だけで、エリーゼが何を言っても外へと出してはくれない。
 かくなるうえは窓から脱出を試みることも視野に入れたエリーゼだったが、このブルク城の配置を知らないまま逃走してもすぐに見つかってしまうだけだと冷静に考えた。
 しかも今現在のエリーゼの立場を考慮すると醜聞になるようなことは避けたい。
 下手に騒ぎを起こせばフリードリッヒに迷惑が降りかかるのだ。
 色々考えた結果、エリーゼはおとなしく助けを待つことにした。
 こんなことになってフリードリッヒが黙っているとも思えなかったからだ。
 エリーゼの「さあどうぞ、説明してください」という無言の圧力にフリードリッヒは気怠げに話し始めた。
 七日前、ミハエルとエリーゼよりも早く王宮へと顔を出したフリードリッヒを見た宰相は「ロマノフト卿はおいでではないのですか?」と真っ先に尋ねてきた。
「今日は娘に付き添っています」
「できれば卿も一緒にお話したいので少々お待ちいただけますかな」
 宰相はフリードリッヒの答えを待たずに近侍に言いつけて後から到着するであろうミハエルを呼びに行かせた。
 どうやらエリーゼをどうしても一人にしたいようだと考えて、ミハエルを付き添わせたのはとんだ手間だったなとフリードリッヒは思った。
 どのみち宰相がその権力を振るえば、エリーゼを一人にするのは簡単なことなのだ。
 フリードリッヒはミハエルが思うほどエリーゼの心配をしていなかった。
 エリーゼと半年ほど過ごしていて気づいたのだが、彼女はどこか自分自身について投げやりな所があり、危機感を感じるべき場面でも「だからどうした」と言わんばかりに泰然と構えている。
 普通ならとんだ世間知らずで命知らずだと思う所だが、フリードリッヒにはエリーゼが本当に危機感を感じていないのだという事が分かった。
 どんな状況でも自分に危険が迫っていると認識していない。それが自分の脅威である歯牙にもかけていないのだ。
 どういった育ち方をすれば、あんな摩訶不思議な少女が出来上がるのか心底不思議に思いながらも、フリードリッヒはエリーゼに次第に信頼を寄せるようになった。
 エリーゼは大抵の事は自分で何とか出来る。自分で責任を持つことが出来るのだ。
 だから今度の事もエリーゼの心配は二の次だった。
 宰相の狙いが自分を国王派に引き込むことなのか、それとも別のところにあるのかいまいち見当がつかなかったことが要因である。
 もし宰相の狙いが自分にあり、それにエリーゼが巻き込まれているのならばこちらに集中しなければならないからだ。
 ミハエルが来るまで宰相とフリードリッヒは無言で向き合っていた。
 二人とも実に穏やかな表情をしている(といってもフリードリッヒは何時もどおり亡霊のような笑顔だった)が、それは上辺だけなのだと室内に踏み込んだミハエルは瞬時に悟った。
 宛ら毒牙を隠し持った自己中心な天才肌の蛇と、人の良い笑みを浮かべていながら知略謀略の限りをつくすマングースの睨み合いに誰が好き好んで入って行きたいものか。
 近侍に案内されて来たミハエルは思わず回れ右をしたくなったが、宰相に促されて嫌々ながらも部屋へと入った。
 フリードリッヒはミハエルを一瞥もせず、感情の読み取れない表情を貼り付けていた。
「ロマノフト卿、お待ちしておりました」
 ミハエルはフリードリッヒの遠縁に当たるという名目を得てファルツ家に住んでいる。
 しかもフリードリッヒが王宮に参内する時は必ず連れて歩くので宰相とミハエルは顔見知りだった。
 ミハエルがフリードリッヒの隣に座るのを待ってから宰相は切り出した。
「今回お二人をお呼びしたのは他でもない。ファルツ伯の養女の件です」
「我輩の娘に何か御不満でもありましたか」
「不満など、とんでもありません。その逆です!」
 どこか焦ったような宰相にミハエルとフリードリッヒはお互い顔を見合わせた。
「ご息女となったエリーゼ嬢とはどちらでお会いになられたのかお聞きしたい」
「……何故ですかな?」
「重要なことなのです」
「…一年ほど前ですかな、王都に閉じこもるのも飽きたので気分転換にコルスタンの方へ出かけたことがありましてな。そこで会いました」
 しれっと嘘を吐くフリードリッヒにミハエルは心底呆れて感心した。
 宰相はコルスタンと聞いて興奮したように顔を紅潮させた。
「コルスタン! それは本当ですな?」
「嘘を言ってどうするのです? 事実ですよ」
「そうですか、そうですか!」
 嬉々としたように宰相は立ち上がり、机の上に置いてあった布に包まれた物を両手で抱えて戻ってきた。
 布で丁重に包まれたそれの大きさから見てフリードリッヒは絵画の類だと見当をつける。
 怪訝そうにする二人の視線が集中したのを合図に宰相は布を丁寧にはがしていく。
 その中から出てきたのはやはり絵画だった。それは肖像画だった。
 明暗の微妙な移行で形態を柔らかく浮かび上がらせた人物が背景に溶け込んでいる。
 黄金の線を描く髪と静謐な雰囲気を湛えたその人物は、白薔薇を一輪、そのたおやかな手に持っている。
 絵の中にエリーゼが居た。
 ミハエルとフリードリッヒは絵の中の人物を見て驚いたが、まじまじと見ている内にこの人物がエリーゼではない事に気がついた。
 エリーゼとまったく同じ顔だが、この人物はエリーゼよりも年上だろうことが分かったのだ。
 エリーゼが成長すればこの美姫になるだろう。
 何よりもこの人物は色素の薄い琥珀色の瞳だ。あの鮮烈な深紅の瞳を持っていなかった。


  

Image by tbsf  Designed by paragraph
inserted by FC2 system