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汝、その薔薇の名

9.花嵐 9


 話を聞いているうちにエリーゼの表情が険しくなっていった。説明が終わると浮かんでいるのは無表情だけだった。
「その直後に慌てた侍従長が駆け込んできてそのままお開きになった。何事かと思っていたのだがね。まさか君に殴られて陛下が気絶していたとは我輩には考え付かなかったぞ」
 フリードリッヒは紅茶の入った陶器を片手で持ったまま笑った。
「さて、とんだ事になったってしまったなエリーゼ。君はこれからどうする?」
「フリードリッヒさん。私に選択権があるわけないじゃないですか」
「君は賢い。その通りだ。宰相殿はもう君を行方不明だったリチャード王子の忘れ形見だと発表した」
「私を軟禁している間に?」
「そうだ。ここは王妃の間。国王以外は何人も近づけない。奥付き侍女も口の堅い者たちが厳選されている。見張りについている衛兵も陛下の腹心ばかり。人目を避け閉じ込めて置くにはこれ以上の場所はない。逃げ道を全て塞がれてから君は外に出されることだろう」
 厳しいことを言うようだが、避けられない現実である以上は誰かがエリーゼに伝えなければならない。その白羽の矢がフリードリッヒに立てられたのはエリーゼの養父であり、後見人としての成り行きである。
 エリーゼを説得するようにと国王側から懇々と言い含められたフリードリッヒだったが、そもそもそんな必要すらないのではないかと思っていた。
 エリーゼは立ちはだかるものを前にして逃げるような性格ではない。
 それは闇商人に誘拐され、フリードリッヒの目の前につれてこられて一方的に要求されたにもかかわらず、自分の置かれた状況から逃げなかったことからも伺える。
「そんなに上手くいくものなのですか?」
「間違いなく上手くいくだろう」
 フリードリッヒはいっとき考えてから答えた。
「陛下には人を上手く使い分ける才能がある。頂点に立つだけの覇気もある。今まで甘い汁を吸うだけで役に立たない貴族たちを一掃し、身分関係なく有能な者を取り立てている。反発もあるが実に有効な手段だ。今まで地位を独占していた者たちに頭を地に押し付けられて恨みや妬みを持つ者は大勢居る。同じ爵位を持つものでも時の権力者によって取立ててもらえる者とそうでない者の差は大きいからな」
「今までの重鎮たちを左遷したのですか? そんなことしたら…」
「そうだがね。陛下は使える者しか側に置かないのだよ。ウィリアード一世も賢君ではあったが、どちらかといえば身分や礼儀作法を重んじる方だった。ウィリアード一世の血をひきながら陛下はその間逆といってもいいかもしれない」
 不躾な対面を思い出してエリーゼは鼻白んだ。
 確かに礼儀作法に頓着しないだろう。間違いなく。
「我輩が思うに陛下は人間不信だったというクドワド四世に似ているよ。用心深く警戒心が強いところは特に。しかしクドワド四世は使える者でも切り捨てたというが陛下は違う。冷徹で無慈悲な方だがよく現実を見ていらっしゃる。使えると判断すればウィリアード一世の重鎮たちもそのまま側に置いたし、身分が低いものでも堂々と取成し褒賞も躊躇なく行なう。陛下を恩に思うものも多いし、今まで我慢を重ねていた下級貴族などは殆ど国王派なのではないかな」
「合理主義者なんですね」
「うむ。加えて民衆の扱い方もきわめて上手い。民の欲求を適度に緩め、不平不満を適度に締めている。事実、陛下の活躍で内乱が治まったのだから民衆からはそう悪い印象はない。何より陛下は戦が上手い」
 元々白い肌を人形のようにさらに白くして虚空を睨んでいたエリーゼが、視線をフリードリッヒに戻せばそこには愉快そうにくつくつ笑う顔があった。
「陛下は庶子という出自ゆえに血統を重んじる貴族たちからはよく思われていない。その筆頭がアイク伯だ。もし陛下が意志薄弱な方でリヘルアータ六世のような方だったら状況は違っただろうな。貴族たちの傀儡となっていただろう。実際、王座の周りの者たちはそう望んでいたはずだ。しかし、五年前陛下は自分に歯向かう者は全て皆殺しにした」
 フリードリッヒの眼はエリーゼ映していながら記憶は過去にとんでいた。
「反乱分子の一族も容赦なく自ら首を刎ねてまわった。軍服を全身真っ赤に染めて常に先頭に立った。その姿に腹に一物抱えたものたちは震え上がり、失禁した者は数知れず、泣いて縋ってきた者さえ一刀両断だった。無駄を嫌い降伏した兵士や騎士団たちは軽い刑罰で許したがね」
「彼らはその後の利用価値があったからですね。でも、反乱を企てた王侯たちは全員殺した」
「ああ。陛下は自らの手を染めて王族殺しを背負う事を望まれた。並大抵の精神ではあそこまで出来ない。だから我輩は陛下には一目おいている」
「その覚悟と手腕ゆえにですか?」
「そうだとも。誹謗非難を承知の上で自ら決めたことを最後までやりとおした陛下は尊敬に値するよ。それがたとえどんなに血なまぐさくとも」
 二人は無言で見つめあった。
 五年前、血の雨が降った。
 一人の男は自ら血に染まり、血溜まりの海を作りながら王座に向かって突き進み、最後の一滴を落とすまで止まりはしなかった。
 何が男をそこまで駆り立てたのかは分からない。
 偉大なる最古の王国の血を受け継ぎし貴ばれる王家の血潮すら、男にとっては意味のないものだった。
 男には王座しか見えていなかった。その一点だけに恐ろしいほど集中し、邪魔者を排除したのだ。
 畏怖をこめて征服王と渾名され、内乱が無くなった今でさえ恐怖の代名詞とされている。
 貴族たちは不満を持つことはあってもそれを表に出す事は無い。そんなことをすれば自分が五年前の二の舞になりかねないからだ。
 あの男はそれを分かっていてやったのだろうか…? 否、間違いなくこうなる事を予想していたに違いない。
「陛下は間違いなく支配者だ。そしてその周りを一癖も二癖もある者たちが取り巻いている。君を王妃にする事は彼らにとって利にかなう行為であり、その為に動くのだから成功しない方がおかしいだろう」
 エリーゼは薄く笑みを浮かべると天鵞絨張りの長椅子に寄りかかった。そしてぼんやりと窓の外を見つめる。
 その様子にフリードリッヒは目を細めた。
 エリーゼはその美貌だけでなく、全身から滲みだしてくる高貴な雰囲気があった。それが以前よりも増している。それに内面の高潔さが合わさり、圧倒的な存在感があった。
 心穏やかではないだろうに取り乱したりはせず、表面上では自らの世界に安らいでいるようにも見受けられた。
「突然自分が王女だって言われても実感が無いんです」
「だろうな」
「いきなり父と母がいたなんて言われても、他人事にしか聞こえないんです」
「我輩の養女になった時とはわけが違うぞ」
「わかっています」
 エリーゼの顔が僅かに強張ったが悲壮の色は無い。
「……私はずっと人外の存在と暮らしてきました。フリードリッヒさん。貴方なら分かりますよね? それがどういうことなのか」
 フリードリッヒの死人のように濁った眼とエリーゼの深紅の眼が交差した。
「私は自分が何故あの森で育てられる事になったのかは知りません。貴方の説明だと先代の国王陛下が命じた事らしいですが、それは私を醜い権力から遠ざける為だといいますが、……そんなこと意味はないんです」
 人の世界から遮断された場所でエリーゼは生きることが出来た。
 それが何を意味しているのかフリードリッヒにはよく分かっていた。
 だから断言した。
「もしその森へと連れて行かれずにそのまま成長していれば、君は間違いなく異端児として扱われただろう。まず普通の人間として生きることが出来なかったはずだ」
 エリーゼは自嘲するように笑い、下卑するように言った。
「一人では無理な事も何人か集まればやれます。人間という生き物は自分たちとは違うものを嫌う」
「人間の心理だな」
「先代の国王陛下はそれが分かっていたのでしょう。私を思い遣ったわけじゃない。邪魔者を追い出したかっただけです」
「そういう考え方も出来るがね。しかしウィリアード一世の考えていた事はもう誰にも分からないんじゃないかね?」
 そうだ。わからない。いくら考えても答えは出ない。
「でも要らないからって放り出されて、今になって必要だから命令に従えと強要されるのはなんだか癪じゃないですか」
「我輩はそういう考え方は嫌いではない。実に君らしい」
 フリードリッヒは、珍しく穏やかに微笑んだ。
 そして立てかけてあった杖を手に取ると静かに席を立つ。そのまま部屋から出て行こうとするフリードリッヒの背中にエリーゼは声をかけた。
「私を説得するように言われたんじゃないんですか?」
「うむ。しかし我輩が何を言おうが君は自分の好きなように生きるのだろう? それに君はもう覚悟を決めているようだ。ならば何を言っても無駄であろう。我輩、無駄な手間は嫌いだ」
 フリードリッヒは立ち止まって身体を揺する。
「君が国王の妻になったら我輩は王妃の後継人だ。必然的に権力争いに参加せねばならなくなる。宰相殿の思惑にはまる事になるが…」
 フリードリッヒは顔を少しだけ傾けて、にまぁと笑った。
「我輩面倒も嫌いだがそれ以上に退屈が大嫌いなのだ。その点、君は我輩を退屈させない可愛い娘だよ。少しぐらいの煩わしさも担ってよいほどにはね」
「あら、ではこれからもよろしくお願いします。お義父様」
 義理の父親の亡霊の如き笑顔に、養女である娘は天使のような微笑で応えた。
 ここにミハエルが居たら鳥肌を立てて叫んに違いない「この似たもの親子が!」と。


  

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