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汝、その薔薇の名

10.暴かれし秘密の花園 1


 紋章や目立つ印もなく、乗り手をわからないようにした黒い馬車が暗い通りを進む。
 閉めきった馬車の中にその恰幅のよすぎる腹をおさめたモンテナ公は顔を真っ赤にしていきり立っている。
 目の前に座る息子が冷めた目を向けていることにも気が付いていない。
「あの忌々しい小僧めにまんまと出し抜かれるとは…!」
 唾を飛ばし憤慨するモンテナ公にアルト・ハイデルは無言のまま手元の書類をめくった。
 そこに記載されているのは国王が見つけ出してきたエリザヴェータ・ド・ローザ・エヴァリン王女についての報告書である。
 王女は先王ウィリアード一世の息子リチャード・トールの息女であり、現在ヴィルバーンにおいて唯一の正統なる血筋の王族である。
 貴族諸侯はフォルデ・レオン・ディカルトを征服王として恐れ、王として敬ってはいるが、その殆どが「体面上である」という事を否定できない者がどれだけいることか。
 特に古くから続く貴族の内心と外面の温度差ほど激しいものはないだろう。
 彼らにしてみれば、フォルデ王はどこまでいっても庶子なのだ。
 そのレッテルをいつまでもつきつけられるフォルデ王には同情するが、事実である以上、王は逃げることはできない。
 血筋を重んじる貴族からしてみれば順当なる王位継承者はエリザヴェータ・ド・ローザ・エヴァリン王女ということになる。
 例え、その母筋が長らく敵対する国の王家であろうが、王族の血ほど目を眩ませるものはないだろう。
 行方不明だった王女の存在の発表。
 近々、国王側が王女と国王の婚約を発表するのも予想ができるというものだ。
 庶子の国王に向けられる批難の緩和が目的だろう。
 他にも目的はあるだろうが、まず王女の血統を利用する効果以上の手はない。
 国王と王女は叔父と姪にあたる。
 しかし、ヴィルバーンの現在の法律では親子や兄妹もしくは姉弟などの近親婚は認められていないが、おじと姪、おばと甥の結婚は認められている。
 古では領地拡大の為、王族の結婚による近親婚は普通だった。
 血統の純潔性を保とうとする意味から近親婚が多かったのだ。
 その風習はこのグラディウスにも未だ根付いている。
 三親等内の傍系血族(兄と妹、姉と弟を除く)同士の婚姻が認められているのがその証拠だ。
 アルト・ハイデルはモンテナ公に気づかれぬほどの小さな笑いを洩らした。
 果たして国王と王女の結婚が近親婚と言えるかどうか…。
 表向きには叔父と姪という関係だが…真実を知る人間はごくわずかである。
「後継人としてあの変人伯爵までもがしゃしゃり出てくるとは、おとなしく隠居しておればよいものをっ」
 王女はファルツ伯の養女に入っている。
 つまり王女はヴィルバーンのヴィクトリア王家正統王位継承者であると同時にファルツ伯爵家の相続人でもあるということだ。
 今まで中立を突き通していたファルツ伯を国王側がどうやって陥落せしめたのか興味をそそられるが、あの知恵者であるファルツ伯が国王派につけばこちらの脅威となるのは必至である。
 タヌキは宰相だけで充分だというのに…。
 アルト・ハイデルは喉を小さく鳴らした。
 目の前で口さがなく悪態つくしか能のないモンテナ公を軽蔑した目で一瞥するとアルト・ハイデルは先ほどまで顔を合わせていたアイク伯のことを思い出した。
 アイク伯は厳格な血統を重んじる権力階級の貴人である。
 選民主義者であり、根強く残る貴族中心の<高貴なる血>ブルー・ブラッドのリーダー的存在だ。
 白髪の交じったプラチナブロンドを頭の後ろへと流し、鋭く冷たいアイスブルーの瞳が長年培われてきた傲慢さを滲みだしていた。
 モンテナ公よりも年老いているはずのアイク伯は齢六十近いとはいえ、長身で見栄えがいい。逆にモンテナ公の方が年老いて見えるぐらいである。
 貴族の生まれ特有の静かな自信と顔の皺が威厳を漂わせている。
 愛想がよく、貿易と金融取引で財を成して尊敬を集めている伯爵である。
 アルト・ハイデルとしては人当たりがよすぎるのが嘘くさく感じるのだが、表面上しか見えない周囲の目は欺かれ易いものだ。
 アイク伯がその実、裏で何をしているのか知っているのはおそらく自分くらいのものだろう。
 宮廷でも広く顔の知られている紳士は、裏社会で違法な経営など手広く活動的だ。
 もちろんアイク伯は人を使い、自らの身分を隠し、自分に実害がないように巧みに犯罪を犯している。
 アイク伯は狡猾であり慎重だ。そして常に自分の感情を上手にコントロールしている。
 しかし、今宵は少々勝手が違ったようだ。
 こちらがずっと探していた王女を国王側に出し抜かれたことで紳士の仮面が剥がれ醜悪な獣が姿を現した。
 紳士の皮は剥がれモンテナ公を罵倒し、その場にいた召使を鞭打つという暴挙に出たのだ。
 モンテナ公は恐怖で縮こまり、震えるだけで役には立たなかったので、その後のやり取りはアルト・ハイデルが請け負った。
 脳なしのモンテナ公よりはアイク伯から信頼されている自覚はある。
 モンテナ公は自分より下の者には容赦なく当たり散らすが、上だと認識した人間にはひたすら腰が低い。
 自分の息子も便利に使える人間という認識しかないだろう。
 こうして自分に喚き散らしているのがいい証拠だ。
 アルト・ハイデルは唇の角を持ち上げた。
 その方が好都合だ。
 相手を油断させてじわじわ追い込むのはアルト・ハイデルの十八番である。
 アイク伯だろうがモンテナ公であろうが目的のためならば利用するだけだ。
 欲しいものを手に入れるためには息をひそめてじっと待ち、時期を見極め、好機を逃がさないこと。
 それが祖母の教えである。
 待つことは苦ではない。
 忍耐力ならばだれにも負けない自信がある。
 金の髪と深紅の瞳をもった美しい少女をファルツ伯の屋敷で見た時に確信した。
 華やかで目新しいものが好きな貴族たちにとって格好の的となるであろう王女の登場によって宮廷はこれから荒れるだろう。
 その時は近づいてきている。
 精々足掻いてくれたまえ諸君…。
 アルト・ハイデルは手で口元を覆い隠し、薄ら笑いを浮かべた。


 柔らかくて温かいぬくもりに包まれている。
 鼻孔をくすぐるほんのり甘い薔薇の香りにうっとりとした。
 甘く重たい闇の腕に抱かれて幸せな夢を見た。
 大切な、大切な宝物を両腕で抱え込んで独り占めしている夢。
 やっと見つけた宝物を大事にしまいこむ子供のように、甘くやわらかく、そして暖かいぬくもりを抱き寄せる。
 幸せな夢だった。
 この至福がずっと続けばいいと思った。
 微かな物音と窓から漏れる鳥の囁きに薄く目を開ける。
 繊細な織りとふんだんに使われた刺繍が煌びやかなカーテンを通してくる淡い光の中で、自分以外の人間が同じ寝台で寝ているのに気がついた。
 ぼんやりとその黄金に輝く髪と真珠色の頬を見つめていたが、唐突に目が覚める。
 ぎょっとして身動げば、美しい少女はむにゃむにゃと口の中で寝言を呟いた。
 自分をやさしく包んでいた腕が離れていくのに一抹の寂しさが過りフォルデはたじろいだ。
 ごろんと寝返りをうったエリーゼは目覚めてないようだ。
 それに安堵した自分に苛立ちながらフォルデはゆっくりと身を起こした。
 頭痛が残る頭を軽く振り、思考を巡らせる。
 昨夜の記憶が曖昧だった。
 確か自室で酒を浴びるように飲んでいるうちに、どうしても衝動が抑えきれなくなったのだったな…。
 それから…、ああ、そうだ足が王妃の間へと自然に向いていて、気がつけば目の前にこの娘がいたのだ。
 そして湧き上がる感情を制御できなかった。
 幼いころから娼館で働いていたので酒にはめっぽう強いのだが、昨夜はどうも自制心が緩んでいたようだ。
 とんだ失態である。
 片手で額を覆い溜息を漏らす。
 寝ぐせで突飛な方向にはねている黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、どうしたものかと思案していたのだが、ぐーぐー小さな寝息を立てて心底平穏そうに寝ているエリーゼを見下ろし脱力した。
 「……まったく、この娘は危機感というものが足りんな…」
 自分で言うのも何だったが、異性と一緒に同じ寝台にいながらここまでのんきにぐーすか寝ていられるとは…。
 何故かちょっとむっとしてフォルデは小粋に寝息を立てるエリーゼの鼻をむにっとつまんでみた。
 数秒後、うぐっと奇妙な声を発してエリーゼがその紅玉よりも深みのある印象的な紅い瞳を開けた。
 麗しのピジョン・ブラッドを凝視してしまったフォルデとエリーゼの瞳が正面からかち合い奇妙な空気が流れた。
「ふがっ」
「………」
 抗議するような視線にフォルデは鼻をつまんでいた手をそろそろと放した。
 解放された鼻をさすりながらエリーゼは胡乱な眼差しを向けたが、フォルデは気まずげに顔をそむけた。
 扉をノックする音が響く。
 それに助かったといわんばかりに寝台から下りたフォルデは扉を開けた。
 そこにいた侍女たちはびくっとした次の瞬間、はっと息を呑み、続いて国王を見上げたままぽかんとした。
 彼女たちが驚くのも無理はない。
 エリーゼの入室許可を待っていたのに、出てきたのが国王だ。
 ぎろりと国王の鋭い視線に睨まれた侍女たちは慌てて膝を折り軽く頭を下げる。
「良きにはからうように」
 脅すように言いつけると国王は部屋から出て行った。
 エリーゼはその後ろ姿を呆れたように見送った。
 結局、何をしに来たのだろうかあの人…。
 腑に落ちないままのエリーゼだったが、考えても仕方がないと自分に言い聞かせながら起き上る。
 枕もとのサイドテーブルに水差しを持ってきた侍女がそわそわしていることにエリーゼは気がついた。
 彼女だけではない。入室してきた侍女たち全員が気もそぞろという感じである。
 ちらちらと物言いたげな視線を感じるのだが、彼女たちが何を言いたいのかさっぱり分からない。
 エリーゼは寝台の上に広がる室内用の上着を回収する一番年長の侍女に声をかけた。
「あの……」
「はい、何でございましょう」
 声をかけたはいいがどう切り出せばいいのかエリーゼは困ってしまった。
 エリーゼの困惑を感じ取ったのか「何か困ったことでも? それとも何か入用でしょうか? 陛下から姫様には不自由なく過ごせるように取り計らうよう申し付けられております」と水を向けてきた。
「いえ…たいしたことではないのですが、向けられる視線が気になったものですから」
「申し訳ございません。皆、驚いていたのです」
 何に?
 エリーゼの心の声は顔に出ていただろう。
 侍女は苦笑した。
「陛下が姫様の部屋で一夜を過ごしたことに皆驚いたのです」
 侍女の言葉を脳内で反芻し、エリーゼはその意味を汲み取ると首を傾げた。
「それはつまり…」
 意味深な侍女の視線がやや乱れた寝台に向けられる。
「どうやら姫様の純潔は守られたようですね」
「…はぁ」
 人間の性関係については養い親や、レディ・アテルダから聞いてはいるが、いまいちピンとこないため中途半端な返答しかできなかった。
 だいたい、今までエリーゼに関わりのあった異性というのが限りなく少なく、且つ、ごく狭い範囲でのことである。しかも幼少時から妖精やら精霊やらに囲まれて育ったのだ。異性関係について疎いのにも仕方がないというものである。
「それに陛下は今まで愛人方と過ごされても一晩共にすることは皆無でしたのでしたものね」
 水差しを持ってきた侍女が他の侍女と頷き合う。
「これっ、口を慎みなさい!」
「愛人…?」
 口を滑らせたことに気づいた侍女が「も、申し訳ありません」と蒼白になる。盆にのせた果実酒の瓶やグラスがカタカタ震えている。
 年長の侍女が他の侍女たちに目配せして室内から追い出す。
「申し訳ございません。お気になさらずとも、陛下のご寵愛は姫様に向いております。ご安心ください」
「はぁ…」
 やっぱりピンとこないので溜息のような返答しか出てこない。
 でも、愛人…。考えると何となく嫌な気分になったのでエリーゼはびっくりした。
 熱心に励ましてくる侍女の言葉も、新たな発見にどぎまぎしているエリーゼには右から左に通り抜けていた。


  

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