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汝、その薔薇の名

10.暴かれし秘密の花園 3


 翌日、約束通り妖艶な美女ドロテア男爵夫人はエリーゼのもとへとやってきた。
 今日の装いはブルーの光沢が美しい絹のドレスだ。
 喉まで隠れるスタイルが主流の今風とはかけ離れた、大胆にも襟ぐりが大きく開いたドレスを着こなしている。
 レースの縁取りがついた袖は広がっていて、極細の絹で作られたストッキングが足元からちらちら見える。
 靴は華奢に見えるが作りがしっかりしていてリボンの飾りがついていた。
 ダイヤの留め金がついた真珠のネックレスがあらわになった首元に花を添えている。
 大胆ないでたちの男爵夫人に侍女たちは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに客人をもてなすために動き出した。彼女たちにとって男爵夫人の装いは気に入るものではなかったようだ。
 そんな侍女たちの様子を猫のようににんまりした顔で見ていることから、男爵夫人はわかってやっているのだろう。愉快犯だ。
 侍女たちが退出すると男爵夫人は声を出して笑いだした。
「なにがおかしいんですか?」
「人間の行動はいつ見ても笑いを誘うものよ」
 男爵夫人は手袋に包まれた手で扇子を揺らす。
「彼女たちにとって私のように奔放にふるまう女性というのはレディとしてはしたないと思っているのよ」
「でも貴女は気にしていない」
「当然よ。わたくしは気にしていない。何故わたくしが人間のことを気にして行動しなければならないの? 私は常に自分の欲望にのみ忠実なのよ。それでも長年人間の中で暮らしていたから、人間のまねをすることは得意なの」
 さもありなんとエリーゼは頷いた。
 それから宮廷の窮屈な礼儀作法の講義が始まった。
 優雅な物腰、軽い足取りで動き、知り合いには会釈をし、手を差し出されたら振らずに、心をこめて握ること。
 出かけ先ではその屋敷の女主人や奥方にまずは声をかけること。その際は顔には笑みを浮かべて決してあわただしく動いてはいけない。
 ただし、王女という身分である以上、エリーゼが声をかけなければ相手からは話すことはできないことを念頭に置いておくことなど、上流の女性の必須条件から始まり、椅子の掛け方、公式の場での動き方など、聞いているうちにエリーゼは紐でぎゅうぎゅう縛られているような感じがしてきた。
 初めの方は、レディ・アテルダの講義と同じだったので欠伸をかみ殺すのに多大なる努力を要した。
 もちろん見とがめられてぴしりと扇子で膝を叩かれた。
「上流の女性ともなれば、息遣いが荒かったり興奮したまま人前に出たり、たとえどんなに気分が憂鬱であろうとも落ち込んでいる様子を見せるのも慎みなさいませ」
「つまり社交の場の雰囲気を壊すようなことはしてはいけないと…」
「そうしたことをすると趣味が悪いとされますのよ。あと異性との距離も気をつけなければなりません。どんな場合でも親しげにするか否かの権利は女性にありますの」
 どういう場合に、どうやってやり過ごすか、厳密な規則があり、エリーゼはうんざりしながらも頭に叩き込んでいった。
 馬車に乗る場合、社内での作法、訪問に関して、暗黙のルールなど、エリーゼにしてみれば面倒極まりないものばかりだ。
「そして扇子の使い方も覚えなさいませ」
 用意されていた扇子を持って首をかしげる。
「扇子での話し方ですか?」
「宮廷の淑女たちは扇子での話し方に長けていますの。もとは中央大陸のイスパニアから広まったもので、おもに紳士たちとのやり取りで使用します。恋の駆け引きにも使用されますわ。男であれ女であれ、王女である貴女にすり寄ってくる人間はこれから大勢いるでしょう。注目される立場の人間ならば、多少は擦れていないと王宮を渡り歩けませんわ。ただのうのうとしているだけではすぐに潰されてよ。思惑の渦巻く宮廷を闊歩したいのならば、まず扇子の動きを読み取らなければなりません。そして流されるのではなく、翻弄してこそ一人前の淑女ですわ。もちろん、扇子の動きだけでなく、目や身振りも注意深く観察しなさいませ」
 そう言うと、男爵夫人は扇子を開き、右頬に扇子をそっとあてる。
「これが"いいわ"という意味」
 彫りこまれた模様が美しい象牙に縁どられている黒いレースが優雅に動く。
「これが"ごめんなさい"」
 扇子を目の高さまでずらし、瞼を悲しげに伏せて見せる。
 エリーゼは興味深げに訊く。
「いちいち扇子で意思疎通するんですか? 面倒な気もします」
「慎ましい淑女というのは、恥ずかしさから相手にうまく気持ちを伝えられないものだからよ」
 そういう男爵夫人こそ宮廷で数多の男性と浮名を流してきた女性である。
 当然のことだが、扇子の扱いは長けていた。
 扇子を持ちかえたり、大きく広げたり、まるで水が流れるように自然かつ優雅にいとも簡単に扇子を扱ってみせるではないか。
 それに見入っていれば、またもやぱしりと扇子で膝を叩かれた。
 手を動かせということらしい。
 エリーゼも初めは男爵夫人の見よう見まねをしてみるが、優雅さがないと叱咤された。意識して動かそうとすると動きがぎこちなくなり、ついには手の筋が吊りそうになった。道はまだまだ険しそうだ。
 それから男爵夫人が満足のいく出来栄えまで練習が続けられた。
 次の日、エリーゼが手首の筋肉痛に悩まされたのは言うまでもない。

 男爵夫人の講義は宮廷内の人間関係や派閥にも及んだ。
 元々このために来たという男爵夫人は、ファルツ伯爵の意図を汲んでエリーゼに知る限りの知識を叩き込んだ。
 内戦を治め、王侯貴族たちから恐れられている征服王の忠実な家臣は誰か。
 そこからはじまり、宮廷の派閥と官吏や大臣たちの人間関係。外交関係。そして主だった貴族たちの血族の講義にまで及んだ。
 長年夢魔でありながら人間のそれも王宮という場所に溶け込んできたのは伊達ではない。
 十日間みっちりと男爵夫人に扱かれたエリーゼは疲労と筋肉痛と戦いきった自分を内心で褒め称えてみた。
 男爵夫人はレディ・アテルダと同じくらい厳しかった。
 ただし、レディ・アテルダは頑張って成果が出たら喜んで褒めてくれたが、男爵夫人の場合は違う。
 実際、男爵夫人は褒め言葉を口にすることはない。
 そこはやはり人間と妖精の差だろう。
 鏡に映る自分は疲れた目をして見つめ返してきたので思わず苦笑が漏れた。
「どうかなされましたか?」
 洗髪した金の髪を入念に梳かしていた侍女に尋ねられ、なんでもないのと首を振る。
 今日は朝から侍女たちが慌ただしく出入りを繰り返していた。
 男爵夫人が言っていた舞踏会が今夜催されるためである。
 前日から城内の空気がそわそわしているのは感じていた。
 いくらこの王妃の間が隔離されているとはいえ、大きな行事で浮足立っている空気までは遮断することはできなかったようだ。
 エリーゼは鏡に向きなおった。
 さすがに宮廷の侍女だけあって、彼女たちはエリーゼをせっせと洗練された淑女へと仕立て上げていく。
 エリーゼは朝から香油風呂に入れられ、爪を研磨され、最先端の美容法を施された。
 次々と運び込まれてきた衣装や宝石や靴に鏡越しに視線を向ける。
「この度の舞踏会用にと陛下からの贈り物ですわ」
「なんて素晴らしいのでしょう。御覧下さいませこちらのペンダント!」
 キラキラと輝きを放つ大きな雫型の金剛石を中心に無数の真珠が散りばめられたペンダントだ。
 そのペンダントに揃えたのか、大粒の金剛石が惜しげもなく使われた雫型の耳飾りが並んでいる。その横には真珠の腕飾りも鎮座していた。
 侍女たちはうっとりと宝石箱の中身に見とれてるが、エリーゼが思ったことはただ一つ。
 売ったらいくらになるのだろうか…。真剣な顔で考えていたエリーゼだった。
 そんなエリーゼの考えなど知らない侍女たちは、国王の要求通り、誰が見ても完璧な王女を作り上げた。
 国王が用意した衣装類をエリーゼはさらりと流しているが、実際そのどれもが特注する際に国王自らが指示を出したともっぱらの噂である。
 侍女たちは冷淡と陰で囁かれている国王の意外な一面にそれはもう驚いた。
 何故なら国王が関係をもつのは、いつも夫のいる世慣れた貴婦人と決まっていた。
 もし、妻が王の寵愛を得たならその夫も厚遇されて出世するのが常であるが、あの征服王にその手は残念ながら効かなかった。
 無慈悲といわれるだけあり、国王はたとえ関係をもった貴婦人でも短期間ですぐに別れてしまう。
 贈物など一切しなければ、関係を持っている間でさえ公式の場で言葉をかけることもない。愛人だからと言って優遇されることもなかった。
 それでも国王の愛人になりたがる者はいくらでもいた。
 もしかしたら、いつかは国王の気が引けるかもしれないと甘い考えが頭をよぎるのである。
 王宮に仕える侍女たちはそんな国王の女性関係を身近で見ているだけあり、リチャード王子の遺児たる姫君に対する国王の心配りにあんぐりと目を点にするほど驚いたのだ。
 そして国王がこの姫君と結婚すると噂が流れ、侍女たちは姫君を磨き上げることに俄然やる気が出たのだ。
 今までが今までだったので、この宮廷には女主人がいなかった。
 本来仕えるべき高貴なる貴婦人を磨き、着飾らせることこそが王宮の奥付き侍女の仕事である。
 役目を取り戻した侍女たちは使命にごうごうと燃えた。
 そして彼女たちは丸半日掛けて磨き上げたエリーゼの出来栄えに満足したようだ。
 白粉を刷き、紅を差し、丹念に梳られた黄金の髪を流行のポンパドゥール風に結いあげ、頭飾りは天使のような羽根とレースのラペットに小さな赤薔薇を添えている。
 宝石箱に入っていた揃いのアクセサリーを身につけたエリーゼは周りを圧倒する美しさだった。
 侍女たちが「ほぅ」とため息をついてエリーゼに見入っていたが、肝心の本人はようやく軟禁されていた部屋から出れることに喜んでいた。
 たとえそれが侍女や衛兵たちに囲まれていてもいい。じっとしているは性に合わない。
 エリーゼは口の端をあげて、いざ扉の外へと足を踏み出した。


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