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汝、その薔薇の名

10.暴かれし秘密の花園 4


 濃い霧が夜の街に丸石が敷かれた舗道を走る四頭立ての馬車。向かうは悠々と翼を広げるように建つブルク城である。
 復活祭が過ぎ、秋冬の間は領地に戻り狩りを楽しんだり、家族とのんびり過ごした上流階級の人々が、社交シーズンのために王都へと次々と戻ってきた。
 国王陛下に正式にお目通りがかなった貴族の娘たちが結婚相手をつかまえるため、続々と華やかな社交界へとデビューする。
 そのピークともいえる本格的な社交シーズンは緑生い茂るマイウスからクインティスの時期だが、すでにいくつかの夜会や音楽会が催され、新しい社交シーズンの幕開けは告げられていた。
 だが、今夜の催しは特別だ。
 何といってもシーズンの始まりを告げる最大の舞踏会であり、上流階級の人々は全員が出席するのだから。
 豪華絢爛なる宮廷舞踏会が開かれるのだ。
 舞踏会の花は勿論今年初めてのシーズンを迎えるだろう初々しいデビュタントたちであるが、この度に限っては様子が違う。
 貴族たちの注目の的は、この舞踏会でお披露目されるこのヴィルバーンの正統王位継承者である王女であった。
 公式に発表された当初、上流階級に限らず市民の間にも驚愕をもたらした王女だ。
 なんとその王女は長く敵対してきたグリアスの王家との間に生まれたという。それだけでも衝撃であった。
 十六年間消息がつかめず、国王陛下自らがその足取りを追い、見つけだしたという。
 眉唾ものだったが、市民の間ではヴィルバーンの英雄リチャード王子の遺児という効果は絶大だった。
 いまだにヴィルバーンの市民に人気が高いリチャード王子の王女は比較的好意的に受け入れられている。
 その反対に貴族の間では憶測が憶測を呼び、あらぬ噂が密やかにささやかれた。しかし、征服王やその側近である大公爵や宰相、そして政界に正式に復帰した由緒正しい伯爵家を敵にまわす勇気のある貴族はいなかった。
 疑念や思惑を胸にこの舞踏会へと参加する貴族たちが門をくぐる様子を、窓辺に佇み見下ろしていた国王は久方ぶりの盛装を着込み、にやりと不敵な笑みを浮かべた。

 壁に並ぶ金箔で縁取られた鏡に無数のキャンドルの光が映り込み、金色のきらめきを放っている。
 大広間は解放され、軽やかな口上や笑い声で満たされていた。
 紳士たちは葡萄酒を片手に今年の議会についての議論をしたり、狩りや紳士専用のクラブについての話題で盛り上がっている。
 きらびやかな令嬢たちは個々に集団をつくり、鋭い目つきの付添婦人が目を光らせる中、クスクス笑い声をしのばせたり見目麗しい紳士をちらちらと振り返ったりしている。
 大広間に集まる人々を見渡すとフリードリッヒは黒檀の杖をコツリとつく。
「相変わらず何年経とうとも変らんな」
「上流の社交場はこんなものだろう」
 浮世離れした独特の雰囲気を持つミハエルはいつまでたっても慣れない場だと肩をすくめてみせる。
 この二人は壁際の近くで給仕から受け取った上等な葡萄酒に舌鼓をうっていた。
 ミハエルが近づいてきたマギステル卿に気づき片手をあげる。
「謹慎処分が解けてなによりだ」
「特例というやつさ」
 年若い令嬢たちの集団がマギステル卿に気が付きしきりに振り返っている。
 魅力的な…―エリーゼが見ればおざなりの笑みと言い切る微笑を浮かべてウインクしてみせるとマギステル卿は真面目な顔つきになりフリードリッヒに一礼する。
「陛下に進言してくださったとか」
「大したことではない。陛下もそろそろ君の謹慎を解こうと考えていたのだ。利害の一致というやつだ」
 マギステル卿は無言のまま頭を下げた。
「ところで噂の的であるエリーゼの姿がありませんね」
「国王はあそこに居るがな」
 ミハエルは胡乱な目つきで要職に就く貴族たちに囲まれている国王を一瞥した。
「エリーゼは今回の本題だ。ここぞというときに出してくるだろう。我輩が宰相ならば国王にそうすすめる」
「なるほど」
 王女の後見人として政界に復帰することを国王から許されたファルツ伯爵を目ざとく見つけつつも、その近寄りがたい風貌から尻込みする貴族を鼻で笑いマギステル卿は声をひそめた。
「先ほどアルト・ハイデルを見かけました。モンテナ公とアイク伯も…。モンテナ公は別としてアイク伯には部下を付けておきました」
「ヘマするなよ」
 マギステル卿はミハエルに口の端を吊り上げてみせる。
「あの男は昔からその手の方で黒い噂がある。危険な男だ。注意することにこしたことはないだろう」
 そう言ったフリードリッヒは何かに気がついたように顔を上げた。
 キャンドルがきらめく重厚な点譲を彩るシャンデリアの銀縁に駒鳥が留っている。
 飾りのようにぴくりともしないので大広間のだれもが気が付いていないが、あれは生きている。
 そして油断なくこの大広間を監視している。
 駒鳥から視線を外せば、豪奢なドレスで着飾った美女ドロテア男爵夫人が輝かんばかりの笑みを浮かべて近づいてくるのが見えた。
 それに気がついたマギステル卿は「では私はこれで失礼します。何かあればすぐにお知らせしますよ」と言葉を残し人ごみに消える。
 ミハエルも情報をできるだけ集まめると言ってそそくさとその場を離れた。
 残されたフリードリッヒはやれやれと眉間をほぐすと男爵夫人を待ち構えた。
「ダーリン! フリードリッヒ様。お久しゅうございます」
 頬を染める妖艶な美女の後ろにはその取り巻きが少し離れた場所から恨めしげにこちらを睨んでいる。
「うむ。首尾はどうかね」
「イケずなお方。わたくしの気持ちを知ってらっしゃる癖にそんな言い方…。でも、そんなクールさがまた素敵ですわ」
 扇子で口元を隠して瞼を伏せる仕草がまた色香を漂わせているが、フリードリッヒは無表情のまま嘆息した。
「君の感性はいつもどおり異常があるようだな」
「フリードリッヒ様こそいつもどおりで安心しましたわ。こうして生身で会えることは少ないですもの。この度の件でも使役を寄こされるぐらいなら、呼んでくださればわたくしが会いに行きましたのに」
「その件についてだが、首尾は?」
 ドロテアは頬にからみつく巻き毛を手で軽く払うと妖艶な笑みを浮かべた。
「上々ですわ。フリードリッヒ様のご指示通り教育いたしました。褒めてくださいな」
「ご苦労だった。手間をかけたな」
「ふふ…。最近は人間に紛れて遊ぶのも少し飽きてきていましたの。でも、これから楽しくなりそうではありませんこと?」
「まあ、退屈はしないだろうな」
 フリードリッヒは音楽隊の音色が止んだことに気がついて笑ってみせた。
 主役のご登場だ。

 トランペットが高らかにファンファーレを鳴り響かせる。
 人々のざわめきが引き、広間の注意が大扉へと向かう。
 侍従が大扉を内側から開ければ、近衛に守られ、侍女を引き連れた王女が現れた。
 深紅の光沢のあるなめらかなベルベットのドレスが歩くと波立った。
 花の模様が織り込まれた繊細なレースの襞襟が花弁のように広がり、広がった袖はふんわりとふくらみボリュームがある。
 真珠の欠片が織り込まれているのか腰周りのホニトンレースはキャンドルの輝きを受けてきらきらと星のように瞬く。
 金粉をまぶさなくても黄金色に輝く髪。薔薇色の頬とすらりと伸びた眉毛。そしてルビーよりも上質の深紅のアーモンド形の大きな瞳。
 優美な顔立ちは緊張からかわずか強張っている。それが初々しい。
 華奢な身体が一輪の薔薇のようだと誰かが小さく囁いた。
 しんと静まり返った大広間を背筋を伸ばしまっすぐ前を見つめる美しい王女に誰もが目を奪われる。
 そんな中を堂々とした足取りで王女へと歩みよったのは国王だ。
 捕食動物のような野性的でいて、しなやかな歩き方だとエリーゼは思った。
 強い視線にとらわれてエリーゼの瞳が揺れる。この鋭い瞳の中には謎がいっぱい詰まっている。
 たやすく自分を捉えるこの瞳にもう捉われているのだろうか…。
 ここはこの人の王国。この人の縄張り。この大鷹の王宮に私は足を踏み入れた。もう逃げられない。
 エリーゼはしっかりと国王を見返した。国王はわずかに目を見開いたが、すぐにいつもの厳しい表情に戻る。
 大広間中の視線が国王と王女へと集中する。
 国王はエリーゼへと手を差し出した。
 誰もが息をのんでその様を見つめる。エリーゼはその手の上に自分の手を静かに重ねた。
 しっかりと握られる手を握り返す。引かれるがままに国王の顔を見詰めたままエリーゼは足を踏み出す。
 二人は大広間を見つめ合ったまま悠々と横断し、玉座へと歩いて行った。
 階段を上り、一段高い場所から多くの貴族を見下ろした国王はおもむろに口を開いた。
「皆に紹介しよう。エリザヴェータ・ド・ローザ・エヴァリン王女だ。長らく行方が分からなかったが、この度、目出度くも王宮へと戻った」
 手が放され、代わりに腰に手を当てられる。しっかりと支えられている。力強く大きな手を意識しながらエリーゼは淑女のお辞儀を優雅にしてみせる。
「一年後、余と王女は婚礼をあげる。王女は余の花嫁となり、ヴィルバーンの国母となる。麗しき王女の帰還に、神々の祝福あれ!」
 侍従長が差し出したグラスを掲げて国王が高らかに宣言した。
 音楽隊が華やかにメロディを奏でれば、人々は口々に「祝福あれ!」と声を上げた。
「王女の帰還に乾杯!」
 一部の紳士たちは葡萄酒を掲げて声を上げた。
 わあっと人々が歓声を上げるのを横目で一瞥し、国王はグラスに入っていたシャンパンを一口で飲みほした。
 空になったグラスを待機していた侍従長に渡すと国王はエリーゼを見下ろす。
「国王と王女が踊らなければ舞踏会は始まらん。踊れるな」
「ファルツさんからダンスは踊れると聞いているのでしょう?」
 国王はくっきりとした眉を吊り上げたが、逆に口角は上がっていた。
「精々、足を踏んでくれるなよ」
「そちらこそちゃんとリードしてくださいね」
 国王と王女のために開けられた空間へと二人は歩いて行き、音楽隊が奏でるワルツに合わせて手を取り合った。


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