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汝、その薔薇の名

6.噂の伯爵令嬢 1


 フリードリッヒ・ファルツ伯爵は、変人である。
 王宮では誰もがそう認識している事実だ。
 ファルツ伯爵家はまだヴィルバーンとグリアスの王家が一つだった頃から存在していた数少ない由緒正しい家柄である。
 当初は其程注目も浴びる事のない伯爵家の一つだったが、魔導時代に頭角をめきめき現した当主たちによって一躍有名になり、今では名門中の名門である。だが、現在の当主フリードリッヒが初めて王宮へと参内した時には誰もが目を疑った。
 成人しているというのにその背丈は小さく、異様なほど細い肢体。百人中百人が「今すぐ医師に見てもらえ!」と助言するだろうほど悪い顔色。
 誰が見ても見窄らしいと思うその容姿にファルツ伯爵家も落ちたものだと失笑が漏れた。
 ファルツ伯爵家の者は代々弱体の者が多いといわれているが、これは酷いものだと誰もが思ったのだ。
 だから誰もがフリードリッヒを侮り、国王との謁見もさして重要視されなかった。
 謁見の場でウィリアード一世は目の前に現れたフリードリッヒを見た感想を顔に表さなかった。しかし、見た目で判断したりはしなかったのだとだれもが気がつくのにそう時間はかからなかった。
 ウィリアード一世は足下に跪いているフリードリッヒにこう尋ねたのである。
「そなた、薔薇の花を見てどう思う?」
 謁見の最中に突然言葉を発したウィリアード一世にその場に居る全員がぎょっとした。
 作法に厳しいウィリアード一世が、自ら手順をすっ飛ばしたのである。
 全員何事かと慌て当然フリードリッヒもそんなウィリアード一世に戸惑い口篭るだろうと誰もが思ったが、予想は大いに外れる事となった。
 顔を上げるよう促され、答えを求められたフリードリッヒは土気色の顔ににたぁと笑みを浮かべた。
 亡霊よりも恐ろしい笑みに何人かが数歩後退ったが、フリードリッヒは気に留めた風采も無く低い声音を発した。
「畏れながら陛下、我輩は薔薇を育てた事がありません」
「ほう? しかし薔薇を見たことぐらいはあるだろう」
「はい、陛下。我輩の屋敷にも薔薇は咲いております」
「それでも意見を言えぬのか」
「陛下」
 フリードリッヒは一旦言葉を句切るとすっと目を細めた。
「薔薇の為に土を掘り、薔薇の為に水を汲む。そうやって長い時間を費やして面倒をみてから、それから始めてその本当の美しさというものは理解できるのです」
「………」
「ですから我輩には、とてもとても」
 そう言って頭を下げたフリードリッヒをウィリアード一世は暫く見つめたまま動かなかった。その間、謁見の間は静態していた。
 やがてウィリアード一世が小さく零した溜息と共に時間が動き出した。
「ファルツ伯爵家の名は伊達ではないようだな」
「畏れ入ります」
「これからもそなたの意見が欲しいものだ」
 フリードリッヒはそれには応えずただ一礼したのみだった。
 その日からフリードリッヒの周りにはまるで蜂蜜に集る虫たちのように貴族たちが取り巻くになった。
 一見しただけでウィリアード一世に着目されたという事実は瞬く間に貴族たちに広がり、フリードリッヒに取り入ろうとする者が後を絶たなかった。
 もとから人目を浴びる事を好まないフリードリッヒは、それにうんざりして誰もが驚く事をやってのけた。
 なんと、ウィリアード一世に隠居する許可を願い出たのである。
 ウィリアード一世の覚えがめでたく、寵臣になるのも間直だと言われていた一番盛んな時だっただけに誰もがその行動を理解できなかった。
 引き止めるウィリアード一世を振り切る形でフリードリッヒは隠居に踏み切り、屋敷に引きこもったのである。
 貴族の社会の競争率は激しい。
 その第一線を早々に投げ出した者は普通ならそのまま忘れ去られていく筈であるが、そこで終わらなかったのがフリードリッヒが奇人変人と呼ばれる所以でもある。
 治世を布いていたウィリアード一世が死亡した為に勃発した内乱時に、働きかけてくる反乱分子をのらりくらりとかわし続けたこともその一因のひとつだ。
 フリードリッヒは王家に弓を引くことなく、反乱軍さえ手玉にとって我関せずを貫いた。
 これには誰もがフリードリッヒの手腕を認めるしかない。亡き王を感嘆させた識見と相俟って評価され、宰相からお呼びがかかったのである。
 さすがに征服王と渾名される国王とその片腕である宰相を素気無く突撥ねるのは分が悪いと思ったのか、王宮に足を運ぶようにはなった。
 だが、王宮に顔を出すのはいつも決まって宰相のお呼びがかかったときだけで、用が済めばさっさと帰宅。社交界には目もくれず、加えて年頃の令嬢や貴婦人たちの含みある流し目さえ遮断して未だ独身でなのである。
 一体何に興味があって生きているのかさっぱり分からない為、付け入ろうとする紳士たちは白旗を上げ、取り入ろうとする淑女たちは歯噛みする破目になった。
 誰もが匙を投げた時、宰相がフリードリッヒに縁談話を持ち込んできた。
 それが原因といえば、原因である。
 エリーゼはそこまで聞いて首を傾げた。
「それって悪いことなんですか?」
「いや、フリードリッヒは未だ独身だし、ファルツ伯爵家は名門だ。今を時めく宰相が持ってきた縁談なら勢力を伸ばそうと思う野心家なら涎を垂らして喰いつくだろろうさ。普通ならな」
「ファルツさんは普通じゃないんですか?」
「フリードリッヒが普通に見えるか?」
 真面目に聞いてくるミハエルに、エリーゼは否定できなかったがなるべく控えめに言ってみた。
「……あんまり」
「そうだろ? 本来結婚相手は選り取りなんだぞ、それなのにその全てを撥ね付けているフリードリッヒにしてみれば余計なお世話ってやつさ」
 ミハエルは肩をすくめた。
「でも、それが何で養子を取る事になるんです?」
「それが彼の可笑しなところだ。適齢期を過ぎても一人身では何かと淋しいだろう、伯爵家の後継者も居ないのでは心配ではないか、そう言ってくる宰相は煩わしいが正論だから下手に反論出来ない。だが、宰相の息のかかった令嬢などとは間違っても結婚なんてしたくない。そこでフリードリッヒはこう考えたんだ。つまり子供が居ればいいわけだ、ってね」
 エリーゼは目を丸くして「あら」と続けた。
「言われてみれば確かにそうですね。ファルツさんに子供が居れば縁談を断る理由には十分ですものね」
「まあね。けど肝心の子供が居ないから、よし、養子をとろう! って言い出した」
「あらあら」
「私は、はっきりと言ってやったよ。君は阿呆かってね。だが、本当の変人とは人の話なんか聞きやしないんだ」
 ミハエルはうんざりしたように溜息をついた。
「おかげで私が駆けずり回る破目になった。宰相にばれれば、絶対に邪魔が入るから表立った孤児院には行けないし、下級貴族の子供を選べばその貴族と繋がりを持つことになる。それこそ却下、って具合に一々注文をつけるんだ」
「もしかして、それで違法の人員売買に…?」
「察しがいい子は説明が省けて楽だな」
 ミハエルはちょっと困ったように笑った。
「実を言うと君で十人目なんだ」
「そんなに候補者が?」
 ミハエルは「違う、違う」と笑いを噛み殺しながら頭を振った。
「私が選んで連れて来ても、フリードリッヒの容姿を見て一発で気絶してしまうんだ。養子にするどころじゃない。今までの子は皆もとの商人に突き返した」
 エリーゼは買われてきた子供たちに同情すればいいのか、それとも初対面で相手に気絶される容貌のフリードリッヒ――しかも連続してだ――に同情していいのか迷った。
 どう反応していいか分からないでいると、ミハエルはがっくりと項垂れた。
「気絶する子が続出してね。極めつけは君の前に来た子だよ。気絶はしなかったんだけれど…まあ、色々あってね。使えないってフリードリッヒが判断した。もういい加減止せと言っても聞かないから、困ってたんだが、どうやらフリードリッヒは君を気に入ったようだ。これで私も闇市に行かなくても済む。君には色々とすまないことだが」
「本当です。すまないどころじゃないですよ」
 そう言ってエリーゼは、先ほどまでここに居たフリードリッヒの様子を思い出した。
 フリードリッヒは直情径行な性格だったようで、必要な手続きをする為、養子宣言を唐突にされて固まるエリーゼを無視して、奇妙な高笑いをあげながら部屋を出て行った。
 口を挟む隙がなかったその手際の良さに呆れ果てていたエリーゼを憐れに思ったのか、ミハエルが説明してくれたというわけだ。
「でもそんなに簡単に養子なんてとれるものなんですか?」
「簡単ではないな」
 ミハエルはブランデーを垂らした紅茶を一口飲んだ。エリーゼも話しながらミルクをたっぷりと入れた紅茶を飲んでいる。
 食後のひと時である。
 気を利かせた従僕が運んで来たのだ。どうやら主人が客をほっぽり出してしまったのだと勘違いしたのか、物凄くすまなさそうな顔をされた。
「フリードリッヒはあれでも貴族だ。それも名門のな。市井の者が養子をとるよりはるかに小難しい手続きが必要になる」
 手間がかかるということは時間もかかるだろう。エリーゼは紅茶をスプーンでぐるぐるとかき混ぜながら考えた。
「まず貴族院に必要な書類を提出して養子縁組を申請しなきゃならない。貴族院に属する代表二十八人の内、過半数の貴族の許可が得られれば、宣言書が作成されるからそれに署名するんだ。それを国王に提出して国王の許可が下りれば養子縁組は成立する」
「ミハエルさんは…」
「呼び捨てでかまわない」
「えーと、ではお言葉に甘えて。…ミハエルは詳しいですね。ミハエルも貴族なんですか?」
「いや。私はフリードリッヒのように身分を持っているわけではない。ただ…父が騎士爵だったんだ」
 少し遠くを見るようにして呟いた。
「騎士爵なら準貴族でしょう?」
 準貴族は貴族と平民の中間に位置する身分だ。
 貴族ではないがある程度の特権や経済基盤などを持つ有力者であり、地方ではかなり力がある者もいる。
「関係ないさ。どのみちこの国のナイトじゃないからな」
 ミハエルは静かに首を振った。
「ナイトの称号は一代限りで世襲することは許されない。だが、父は地主でもあったから私たちにそれ相応の教育をした」
「私たち…?」
「私と兄だ」
「それで教養があるんですね」
 ミハエルの瞳が陰鬱に陰る。そして何かをさえぎるように片手を振った。この話はしたくないという意思表示だろう。
「君こそ普通の市民では知らないことを知っているな。貴族のこと然り魔導師のこと然り」
「婆様が教えてくれたんです」
「他にはどんなことを?」
「そうですね……この国の事や古の言い伝え、神話、薬草のこと。大抵の事は聞けば教えてくれたし、婆様の部屋には本もたくさんあったので読んで得た知識も中にはありますけど」
 エリーゼはうーんと首を傾げた。
「でも婆様は意地悪なところもあって、聞かないと教えてくれないんです。例外もあったけれど。こちらから話しかけないといつまでも鍋釜の前に居座って何かしてますから」
「どうやら魔導師というのはみな偏屈者のようだ」
 ふう…と溜息をついてミハエルは眉間を指で撫でた。
 この様子からしてミハエルはそうとうフリードリッヒに振り回されているようだ。背中から哀愁が漂い、これまでの苦労がにじみ出ているような気がする。
 そんなミハエルを見ていてエリーゼは少し不安になってしまった。
「これからどうなるんでしょうか」
「フリードリッヒの養子になるしかないと思うが」
「無駄だと思いますけど確認していいですか」
「……いいよ、なんだい」
 エリーゼは真顔で言ってみた。
「それって、拒否できますか?」
「無理だ」
 即答だった。
 ミハエルは疲労困憊といわんばかりに言った。
「フリードリッヒに目を付けられた以上、諦めが肝心だ」
 実に至極明快な助言である。
 エリーゼは温くなった紅茶をぐわっと一気に呷った。
「お、おい、大丈夫か?」
「ごほっ、大丈夫です」
 豪快に口許を手の甲で拭うと目を据わらせる。
「女は度胸ですものね。いいでしょう。受けてたちます!」
 唖然とするミハエルにエリーゼは微笑してみせた。


 

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