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汝、その薔薇の名

6.噂の伯爵令嬢 2


 次の日から、ファルツ伯爵家の養女として正式に迎えられる事になったエリーゼだが、表舞台に出る前にやるべきことがあった。
 それは何処に出ても恥ずかしくない立派な『淑女』になることである。
 ファルツ伯爵家はヴィルバーンでも有数の名門貴族である。その栄えある一族の仲間入りを果たすのである。今までのようにふるまう事は許されないというのだ。
 淑女たる者、慎ましく、貞淑と分別を持ち、優雅にふるまう事が当たり前である。
 怒涛のレッスンが始まった。
 フリードリッヒに「特技は?」と聞かれたエリーゼは馬鹿正直に「家事と薔薇を育てる事と金勘定ぐらいです」と答えたのだが、これがいけなかった。
 実際それ以外に答えようがなかったのだからしかたがない。
 コルスタンでは、晴耕雨読な気楽で奔放な毎日をおくっていたのだから当然である。後は…辛うじて簡単な刺繍ぐらいはできる。
 これを聞いたフリードリッヒは、ファルツ家の人員を総動員してエリーゼに淑女の嗜みと呼ばれる芸事、刺繍に始まり、行儀作法に何故か学問や馬乗りに至るまで有りとあらゆる事を叩き込むことを決意したのである。
 ファルツ家に従事する者たちは普段からフリードリッヒの言動に慣れているのか、返事一つで承諾してエリーぜに根気よく付き合ってくれた。しかし、エリーゼは今まで森の中で自由気ままに生活していたので、詩だの芸術だのダンスだ、やれ修練だと言われても、はっきり言って困った。
 まさに未知の領域と言っていい。
 貴族の女性はこんな事を覚えなければならないのかと苛立ちを通り越して呆れ果てた事も一度や二度ではない。
 学問に至ってはフリードリッヒ自らが教示すると言った徹底振りだった。
「やるからには徹底的にやる」
 そう言い放ったフリードリッヒは、言明した通りびしばしエリーゼを扱いた。
 流石のエリーゼもこれには参ったが、もうここまで来たら殆ど意地である。元々要領よくたちまわり物事を上手く処理できるエリーゼは、精神的に刺激的な毎日を何とかこなしていった。
 フリードリッヒは完璧主義なところが少々あり、専門的なことは外から雇った家庭教師に教えさせていた。
 エリーゼを受け持つ家庭教師はフリードリッヒが厳選した者たちで全部で三人いる。人間的に信頼がおけ、忠実であり、エリーゼの事を外に漏らすことのないような口の堅い者だけをフリードリッヒは求め連れて来たのだ。
 三人の家庭教師との授業は慣れればなかなか興味深かった。とはいえ、はじめのうちは手こずってばかりで本人も周りもてんてこ舞いされられたのだが。
 元々知識欲に飢えていたエリーゼにとって、手加減なしに頭や身体に叩きこまれていく知識を吸収しながらも、楽しいと感じられるようになるのにそう時間はかからなかった。
 さすがにフリードリッヒが連れてきただけあって、三人の家庭教師はそれぞれ個性的だった。
 礼儀作法の家庭教師はレディ・アテルダ。彼女はきびきびとした歩き方と、つんととがった顎に髪をピンでがっちりと頭の上で固めた老夫人である。
 一年前に伯爵である夫を亡くし、息子が家督を継いだのを機に故郷のマフチェスへと生活を移したのだという。
 フリードリッヒとは亡き夫を通じた知人で、彼の頼みを受けてやってきたのだ。
 ダンスの家庭教師はマギステル卿である。男爵であるマギステル卿は伊達男で女性を喜ばせることが自分の使命だと豪語するつわものだ。社交界でもその巧みな話術とダンスの技術で多くの女性の心を魅了している。
 しかし、軽薄な人柄を装っているが、マギステル卿ほど忠義に厚い人はいないのではないかとエリーゼは思っている。
 ある事件でフリードリッヒと知り合いになり、助けを借りたのだ語ったマギステル卿の瞳の奥にフリードリッヒに対する尊敬が根付いていたのは見間違いない。
 そして芸術をこよなく愛する老人アルスター・レント。普段は温和な性格のアルスターだったが、愛する芸術のこととなると態度は豹変する。激しい熱意を持って延々と続く講義はエリーゼもちょっと押され気味だ。
 三人の家庭教師は持ちうる全てをエリーゼに教え込んでくれている。
 学問についてはフリードリッヒと――時にはミハエルも一緒になって図書室に籠りながら教えを受けている。
 他のレッスンとは違いフリードリッヒとの勉強の間には侍女や従僕たちが出入りすることが多い。
 何故なら、フリードリッヒは気まぐれで時間も忘れがちなので、周りが気をつけなれりばならないからだ。
 見計らった召使たちが食事や休憩を告げにやってくる。その時にはこってりしぼられたエリーゼも食事やお茶にありつけるというわけだ。
 今日も今日とてエリーゼは図書室へと来ていた。フリードリッヒはまだ来ていない。
 読書をする為だけに作られた部屋だけあってそこかしこに本棚があり知識の詰まった本が整頓されて置かれていた。
 机の上に広げられた地図に気が付き、エリーゼは椅子に座って見下ろした。
 地図の上に広がる大陸はいくつもあるがグラディウスは西の大陸と言われている。
 例えば北の果てには氷に閉ざされた大陸、東にはまだ見ぬ異国の陸地、南にはいくつもの島国からなる海の連合国家がある。
 そしてグラディウスが隣接している中央大陸には肥えた大地と様々な鉱石が豊富に採れる鉱山脈が数多く存在し、多くの人々が自然からの恵みを受けて生活している。
 繁栄する中央大陸とは国交が盛んにおこなわれており、ヴィルバーンもそれにもれず、昔から外交を盛んに推進している。
 しかし、古の神々の時代が終焉してからは人の時代が長く続く歴史を綴り、幾つもの国々が存在しあいながら人々は競い合い、国と国との戦乱の世が続いていた。
 グラディウスでも多くの国が近年まで戦に明け暮れていた。
 その大きな原因がヴィルバーンとグリアスの険悪な関係による余波だったと言ってもいい。
 グラディウスでもっとも権力のある二大国が戦争を起こせば、それぞれの同盟国も巻き込まれるのだ。
 渋い顔で地図を睨んでいたエリーゼの視界にチェスの駒がコツンと置かれた。
「ここがヴィルバーンの王都アスタイン。こっちがグリアスの王都トルリーズ」
 白と黒のキングがそれぞれ地図上に置かれる。
「そしてここがヴィルバーンとグリアスの国境クッフィールドだ」
 ポーンを置くと蜘蛛の足のように細長い指が離れていった。顔を上げればいつのまに入って来たのか、フリードリッヒ立っていた。
「十三年前に引かれた新たな国境ですね」
「うむ」
 ヴィルバーンとグリアスは長い間戦争を繰り返していたのだが、俗にいう百年戦争――所謂冷戦期間が始まり、大きな戦はなくなったが小競り合いは絶えなかった。
 それが一変したのが十三年前の終結戦争である。
 フリードリッヒは椅子を引くとエリーゼの正面に陣取った。
「ヴィルバーンとグリアスの国境は現在の国境よりもさらに北方にあったが、リチャード王子が率いるヴィルバーン軍がグリアス軍を打ち破り、実質上の停戦へと追い込んだ場所がクッフィールドだ」
「たしかその時にグリアス軍を率いていたのは国王ジョゼフランツ三世でしたよね」
「そうだ。グリアス国王が自ら軍を率いてきたからこそ自国の敗北を認めるしかなかっただろう。しかし、ジョゼフランツ三世は狡賢くも抵抗して抜け穴をかいくぐろうとしたした。相手がリチャード王子だったので侮ったのだろうな。だが、我らがウィリアード一世の方が一枚も二枚も上手だった。ウィリアード一世は同盟国に働きかけてグリアスの退路を完全に立ち、自らもクッフィールドに赴いたのだ。そして終戦条約を結んだのだ」
 ヴィルバーンの名君と英雄の活躍により百年戦争は事実上の終戦を迎え、ヴィルバーンとグリアスの関係は今だ良好とは言いがいものの、戦に明け暮れていた国々は平穏になり、人々は穏やかな生活を取り戻しつつあった。
 エリーゼはポーンをつんとつついた。
「ん? でもクッフィールドはグリアスの領地だったわけではないですよね? 今はヴィルバーンの領地ですけれど…」
「ふーむ。いいところに着眼したな。昔からクッフィールドはいわゆる中立地帯だった。ヴィルバーンとグリアスが接しているだけでなく、他国の商人たちが通る街道という役割もあったからだ。それにブリア山脈が横断している」
「精霊の峰ですね」
「昔からの呼び名だな。クッフィールドに住む者たちも今だその伝説を信じているのは間違いないだろう」
 標高二千以上の山並が連なるブリア山脈は古くから信仰の対象であり、その頂には精霊の廻廊へとつながる扉があると信じられていた。
 審判者ブルーメ――司法の神アグリスに仕える精霊が守るその扉の向こう側には精霊界へと繋がる長い回廊があるのだそうだ。
「神殿では数十年に一度、巡礼の祭が催されるんですよね」
「厳密にいえば催されていたんだ。百年戦争以来、ヴィルバーンとグリアスは常にこう着状態が続いていたので、おいそれとできる祭事ではなかったのだよ」
「じゃあもう百年以上も行われていないということですか」
「もっとも巡礼とは言うが本当に頂に行くわけではない」
 好奇心に瞳を輝かせるエリーゼにフリードリッヒはにやりと笑う。
「登れるのは五合目までだ。そこにある神殿に参拝するのさ」
「それ以上は登らないんですか?」
「登れないのだよ。道がないのだ」
「道がない?」
 どういう意味かと首を傾げるエリーゼにフリードリッヒは指で地図上に記載されているブリア山脈をゆっくりとなぞった。
「険しい崖と急な上り坂、密集した緑の森、あるのは獣道のみ。頂を目指そうとするのは無謀な者がすることだ」
「危険と隣り合わせということですね。でも、だからこそ神秘性があるのかもしれない。精霊の約束事があるぐらいだから」
 フリードリッヒは面白そうにエリーゼを観察した。
「それは民間で広く親しまれている童謡のことかね」
「ええ。そうです」
「たしか神殿はそれを認めていなかったと思うがね」
「神殿は突き詰めれば結局のところ俗物ですもの。神殿が認めようが認めまいが関係ありません。親から子へと昔から引き継がれてきた民謡や詩やお伽噺にこそ真実が隠されていると思いませんか?」
「その考え方は面白い」
 フリードリッヒはいかにも楽しげに短く笑い声をあげた。
「まず、頂にたどり着けるかが問題だがね。歌によると精霊の回廊を進むためには精霊の約束を守らなければならないのだろう?」
 エリーゼは頷いた。
 決して争ってはならぬ。
 決して血を流してはならぬ。
 決して踏み越えてはならぬ。
 精霊の廻廊を進みたければ振り向いてはならぬ。
 歌い継がれてきた精霊の約束と呼ばれる歌のなかにはそういうフレーズがあるのだ。
「意味はわかりませんけど…」
 精霊の約束を一つでも破った者は冥界へと墜落するといわれている。逆に無事に廻廊を通過できたものは精霊界へと進むことができる。
「我輩が聞いた話ではブルーメの審判によって振るい落とされた者は肉体をもったままこの世での存在意義を失い異界へと迷い込んで二度と戻ってこれないということだ。まあ、ブリア山脈に入り込んで戻ってこれなくなった者たちが大勢いることからそういう話が広がったのだろうがな。クッフィールドにはそういった逸話や伝説が多く残っている。ある意味でクッフィールドは聖地といえるだろう。精霊の峰だけではなく、妖精の丘もあるからな」
「ダウンスのことですか」
 クッフィールドの大部分は岩の多い低地からなりたっているが、東部にはニンネス湿地帯や石灰岩の丘陵地帯がある。その石灰岩質の丘陵地帯は南まで続いているが、東部にいたってはそのほとんどは丘陵地だった。
 ダウンスとはクッフィールド東部にある辺境のことだ。そこには不思議な環状列石ストーンヘンジがある。別名は妖精の丘。妖精の王国へと繋がる場所。
「ゆえに昔からクッフィールドでの争いはタブーとされてきた」
「聖地を汚すことなかれ、古き礎を壊すことなかれ――つまり精霊や妖精の怒りをかうようなことをしてはいけないということですね、禍を招くから」
「教訓のようなものだ」
 エリーゼはそれだけでないことを知っている。
 精霊や妖精は無邪気で気紛れで悪戯を好むが、言いかえれば残酷で人間には及びもつかない考え方をするということだ。自分たちの縄張りへの意識は意外に強く、そして彼らは約束にこだわる。
「まったく君との会話は実に有意義だよ。エリーゼ、君は我輩を飽きさせんな」
 立ち上がったフリードリッヒは本棚から何冊か本を取り出すと戻ってきた。
「さて、では本題に入ろうかね」
 地図をくるくると巻きとってわきへとよせて分厚い本をドスンと置くと、フリードリッヒはページをめくり始めた。
 前回までは地理について叩き込まれたので、今回からは歴史についてかしら。エリーゼはちらりと本のタイトルを確認して自分の考えがあっていたことを知った。
「まず始める前に、君はヴィルバーンの建国史についてどれくらい知っている?」
「ヴィルバーンとグリアスが元々一つの王家から分断された国だということ、ヴィルバーンは最も歴史ある国で、王家の血脈をたどればグラディウス最古の王国に行きつくことぐらいです」
「では他の国については?」
「ヴィルバーンの友好国でアグリウス王国とナベラ公国、あと隣国のエルダラン…ぐらいでしょうか」
「ヴィルバーンの同盟国はアグリウス、ナベラ、エルダランの他にリトニアとバイエルがあるので覚えておくように。まあ、他国との関係は後々説明することになるだろうから、まずは自国についての知識を覚えてもらおうか」
 フリードリッヒは開いた本をエリーゼの方へと向けた。


  

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