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汝、その薔薇の名

6.噂の伯爵令嬢 4


 それはまさにあらゆる悪夢を体現した時代である。
 グラディウスが混乱のさなかにあった頃、奇しくも隣の中央大陸でも混沌とした時代が幕を開けようとしていたのだ。
 国と国が争い合い、魔と悪が蔓延り、疑念と恐怖が支配する戦国乱世に人々は震えあがった。
 多くの命が散り、大地は血の海に染まった。
 エリーゼは実際に中央大陸に行ったことはないし、その時代に生きたわけではない。しかし、話は養い親から何度も聞いた。
 養い親であるキャサリン・ジーナはその時代に生きていた。彼女はこの世の地獄をその目で見て体験してきたのだ。
 争いがどれほどの悲劇を生むのか、その悲劇が作り出す新たな憎悪。それは悪循環となって人間を闇へと引き込むのだ。
 暗黒時代の話を聞いた日の夜、まだ幼かったエリーゼは恐ろしさの余り眠ることができなかった。
 人間はどこまで堕ちるのか。人間はどこまで残酷になれるのか。それを知ってしまったエリーゼは度々悪夢に魘された。
 同族で殺し合うのは人間だけだ。エリーゼが知っている動物の営みにそんなものはない。
 ゆっくりとした時間が流れる永久の森で育ったエリーゼは人の内に巣くう感情というもの知って人間という生き物に初めて嫌悪感をもった。
 そして、自分もまた感情を持つ同じ人間なのだと思うたびに妖精たちとは違うことを思い知らされた。
 まあ、それでも妖精の残酷さを知ってからはエリーゼもだいぶ耐久がついたのだが…。
 妖精の残忍さといったら…、人がかなう領域ではない。
「こらこら、視線が下がってるよ」
 考え込んでいたので、いつのまにか視線が足元へと向けられていた。指摘されてエリーゼは顔を上げる。
 マギステル卿がとろけるような笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
 エリーゼの手が置かれている濃紺色の上着の上からでも感じられる硬い肩。細身に見えてもしっかりと筋肉がついている肢体に、濃い茶色の髪と日焼けした健康的な肌。猫科を思わせる大きな瞳。生きた彫刻と褒めそやされる稀有な容姿の持ち主の、形の良い唇の端がきゅっと持ち上がっているのは面白がっている証拠だ。
「ダンスの最中に考え事かい?」
 言葉を濁すエリーゼにマギステル卿はクスリと笑うと大きく体を動かして、エリーゼを引いた。
 突然のターンにエリーゼは慌ててステップを間違えてしまう。
「ダンスの最中にパートナー以外に心を移すのは失礼にあたるよ。心の狭い輩だったら気を悪くするだろうし、印象もよくない。気をつけなさい」
「気がそれるのはよくないなら、会話もよくないのでは? 先程から私たち会話してましたけど」
「少しぐらいの会話は社交の一環だよ。だから会話をしていてもちゃんとステップを踊れないとね」
 ウインクを返されエリーゼは肩をすくめた。
「まったく、私の魅力が効かないのは君が初めてだ」
 大げさに「嘆かわしいね…私の腕が落ちたのでは断じてないぞ」とぶつぶつ呟くマギステル卿にエリーゼは噴き出した。
 今でこそ気軽に軽口を交わしているが、ダンスの授業を始めた当初のマギステル卿はダンスを全く踊れないエリーゼに対して呆れ果て、それはそれは蔑んだ視線を向けてくれたものだ。
 そう…このマギステル卿は女性が生きがいと豪語してあらゆる女性を魅了する癖に、その実、異性に対して冷ややかな感情しか抱いてない最低な男である。
 こういう女の敵である男に、何故女性が誑かされるのか、エリーゼは理解できなかった。
 砂糖菓子のように甘い外面によって巧妙に隠された本性が、エリーゼにはすぐにわかった。マギステル卿は女性を信じていない。この人は異性に対して本当は嫌悪感を抱いている。
 彫刻のように整った美しい顔で天使のように微笑んでも、異性を見るその瞳は冷たい氷柱のようではないか。だからエリーゼは不思議に思って聞いてみた。
 何故嘘をつくのかと、どうして嫌いな女性のことを好きだと言うのかと。
 エリーゼの問いかけに、マギステル卿は豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして絶句した。
 その時一緒にいたフリードリッヒは大爆笑して腹が痛いとヒーヒー言っていた。何がそんなに面白かったのか今でも謎だ。
 それ以来、マギステル卿はエリーゼに対する態度を変えた。
 かろうじてかぶっていたよそゆきの外面を捨ててしまったのだ。なので、それまで丁重に扱われていたのが嘘のように、ステップを間違えれば嫌味が飛び、音をはずして足を踏みつけてしまうとすぐさま文句を投げつけられた。
 熱血コーチのスパルタ授業のおかげで、エリーゼは筋肉痛と闘う羽目になり、足は肉刺だらけになってしまった。
 それでも偽りの仮面をかぶって接されるよりはいいとエリーゼは思っている。
「ふん、まあ始めたころに比べれば格段に良くなっているよ。君ときたら歩き方から習わせないといけなかったんだから」
「レディ・アテルダにもまず姿勢から正されましたね、そういえば」
「若い貴族の女性は優雅にそぞろ歩くものなんだよ。君は衣服や美容に頓着しないばかりか、元気が有り余っている栗鼠みたいにちょろちょろと動き回るし…」
 エリーゼはレディ・アテルダによってぎゅうぎゅう締め付けるように着せられたコルセットのことを思い出して口をへの字に曲げた。
「おいおい、顔が崩れてるよ。まるで締め付けられた蛙のようじゃないか。素材はいいんだから常に微笑んでいなさいって言ったと思うけど? 忘れたのかな?」
「蛙…」
「あのね、容姿は強みなんだよ。美しければ相手を怯ませる事も油断させる事もできる。自分の利点を認識して利用することを覚えなさい」
「貴方のように?」
「そう。私のようにね」
 にやりと笑いマギステル卿はオルゴールの軽やかな音が止むと同時に足を止めた。自然とエリーゼの足も止まる。
「さて、今日はここまでとするか」
「ありがとうございます」
 エリーゼはレディ・アテルダに教わったとおりにお辞儀をした。すると、扉をノックする音がしたのでマギステル卿とエリーゼの視線はそちらに向かう。
 入ってきたのはレディ・アテルダだった。きびきびとした歩調でやってきた彼女は、マギステル卿とエリーゼを見て頷いた。
「ダンスの稽古は終わったようですね」
「はい」
「丁度良かった。レディ・エリーゼ、ミスター・ロマノフトが貴女を探していましたよ」
「ミハエルが?」
「貴女は現在ダンスを習っている最中だと申し上げると、用事は終わってからでよいとのことでした。今は広間にいらっしゃいます」
 エリーゼはにっこり笑って駆け出した。とたんにレディ・アテルダが眉を吊り上げる。雷が落ちないうちにエリーゼはすたこら部屋から飛び出した。
 その素早さにレディ・アテルダは口を開く間もなかった。
 鼻息を荒くするレディ・アテルダの横で、くくくっとマギステル卿は笑いを噛み殺すが、じろりと金縁の眼鏡の奥から睨まれて姿勢を正す。
「あの子と来たら、その気になれば宮廷の淑女のようにふるまえるのにどうしてああも大雑把なのか…。いったいどういう風に育ったのやら」
「同感ですね。エリーゼには驚かされてばかりいる気がしますよ。元々運動神経がいいのか、ダンスだって私が思った以上に呑み込みが早い。エリーゼの身のこなしは天性のものらしい」
 心底感心したように零された言葉にレディ・アテルダはマギステル卿をちらりと見た。
「珍しいこともあるものです。貴方が他人を誉めるなんて」
「それほどエリーゼが興味深いということにしておいてください」
 畏まった言い方にレディ・アテルダは僅かに眼尻を緩めた。
「どうやらわたくしの心配は杞憂に終わるようですね」
「…え?」
「ファルツ伯は心配いらないと言っていました。貴方は自力で乗り越えるだろうと…どうやら殿方のことは殿方の方が詳しいようですわ」
 マギステル卿の顔に驚いたような、どこか照れたような、しかし、困惑したようにも見える表情が一瞬だけよぎった。次の瞬間には感情が読めないいつもの笑みで覆われてしまったが。
 目の前の青年が自分の感情を表に出すことを苦手としていることを知っていたので、レディ・アテルダはそれ以上は口をつぐむことにしたのだが、驚いたことにマギステル卿の方から口を開いた。
「貴女の夫君に…、そして貴女にもお世話になったのに……。貴女とは今まできちんと接した記憶がないことを申し訳なく思っています…。私は扱いにくい子供でした。恩を仇で返す奴だと、さぞご不快になったでしょう」
「いいえ。貴方のことについては僅かなりとも知っているつもりです。わたくしも亡き夫も…ただ、心配だっただけですわ」
「先代のオズワルト伯についてはお悔やみを申し上げます。駆けつけようと思ったのですが、状況が許しませんでした」
「いいのです。貴方はこの国の為に働いていらっしゃる方です。お言葉だけで充分。夫も分かっておりますわ」
 マギステル卿は片手を胸に当てて深く頭を下げた。
 どのような心境の変化が起きたにせよ、人との間に常に壁をつくっている――特に異性との間――彼の驚くべき変化だった。
 おそらくその一端はエリーゼにあるだろう。彼女はマギステル卿が隠しているものを一目で見抜いてしまった。そして女でありながら自然体で彼と接しているように見えた。
 初めの頃は猫をかぶり、それを見破られれば嫌悪と侮蔑を向けていたマギステル卿が呆れてものも言えなくなるほど自然に――それが当然と言わんばかりに――顔を合わせるたびに声をかける、遊びに誘う、悪戯を仕掛ける。
 彼が嫌そうに顔を顰めていようと、女性ならば怯んでしまうだろう視線を向けられようが、嫌味を言われようがエリーゼは自分に向けられている感情など屁とも思っていないようだった。
 そして彼はそんな小娘に一方的に感情をぶつけているのが段々とばからしくなったらしい。つまりマギステル卿はエリーゼに慣らされてしまったのだ。
 百戦錬磨のヴィルバーンの女誑しが年下の少女に手も足も出ることなく大人しくなってしまった。
 可笑しい事この上なかった。
 レディ・アテルダは彼らを見ていて笑いを必死に押し隠していた。この館の主人は隠すことなく面白がっていたけれど…。
 感慨深く目を細めてレディ・アテルダはマギステル卿を見つめた。
 亡き夫が死ぬ間際まで気にかけていた…そして成人するまでは後継人として保護していた子供は、傷ついたまま大人になってしまった。
 そのことを不安に思ってはいたが、人は人と接して成長する生き物でもあることを忘れていた。
 急な手紙でこの館に招かれた時は何事かと思い、エリーゼを紹介されたときは心底驚いたものだが…。
「ファルツ伯爵は見る目がありますわね」
 厳格な表情を滅多なことでは崩さない老夫人にしては珍しい事に、微笑を浮かべるときびきびと扉に向かう。
 その背中を見送ったマギステル卿の耳に、遠くから少女の歓声が聞こえてきた。


  

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