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汝、その薔薇の名

prologue


 何処までも、何処までも、澄み渡った青空が広がっていた。
 そこは見渡す限り、薔薇の花で覆われて、右を見ても左を見ても薔薇の園である。
 人の背の高さほどの生垣が張り巡らされ、その生垣に這うように薔薇の蔓がびっしり巻きついている。美しく手入れされた薔薇は、淡いピンクにライラック、雲のような白に濃厚なクリーム、黄色に深紅に杏色。色鮮やかな薔薇が一斉に咲き誇っている。
 唯一頭上の空だけが、周りの色と異なった。
 一寸先も分からない迷路の中を、夢中で歩いていた黒髪の少年は、そこでやっと足を止めた。行けども行けども変わらない景色を見回す。
 自分が今どこにいるのか分からない事にやっと気づいたのだ。
 広い敷地内に作られた、入り組んだ場所である。もはや何処から入り、どのような道順をたどってきたのかさえ分からない。どちらに行けば、ここから出られるのかもまったく分からない。からからに乾いた喉が、ごくりと音を立てて唾を飲み下した。
 華やかで強い甘さが辺り一帯に充満している。薔薇の濃厚な香りにあてられて、くらくらする頭を振ったが少年は、自分の視界がぼやけたのを感じた。
 たった一人きりで薔薇の中に取り残されてしまった。
 呆然と立ち竦むしか術がなく、少年は天を仰いだ。人の気配がまったくない。ここには、自分一人きりしか居ないのだと思い知らされた。一生ここに閉じ込められて、出られないのではないか、そう思った。
 そうなれば、このままここで死ぬことになるのだろう。
 この世とは思えないほどに美しい場所を、少年は生まれて始めて見た。
 負け犬のように惨めな死に方はしたくない一心で、今まで生きてきたが、こんな綺麗な場所でなら死んでもいい。霞む視界と停滞する思考でそう思った瞬間、少年の視界に、何かが入り込んだ。意識は一気に覚醒し、驚いて目を見開いた。
 最初に見えたのは、鮮烈な紅だった。
 それが人の眼なのだと気づくのに、時間がかかった。
 黒髪の少年の目の前に居たのは、三歳ぐらいの女の子だった。真っ白なドレスにその小さな身を包んだ女の子は愛らしかった。紅玉よりも、石榴石よりも、赤薔薇よりも深い色の瞳で、黒髪の少年をまっすぐ見上げている。
 一瞬、薔薇の妖精が目の前に現れたのかと思ったが、その女の子はちゃんとした人間の子供だった。
 どのくらい見詰め合っていたのか分からない。沈黙を破ったのは深紅の瞳を持った女の子だった。その小さな小さな手で黒髪の少年の手を掴んだのだ。  あまりの柔らかさに少年はぎょっとした。ちょっと力を込めたら、握りつぶしてしまいそうだ。焦る黒髪の少年に気づかずに、女の子はくいくいと少年の手を引っ張って歩いていく。少年はよろめきながらもついて行った。
 歩幅が違うので、ゆっくり歩かないと直ぐに女の子を追い越してしまうから、慎重に女の子に手を引かれて歩いた。
 一歩一歩、こんなにゆっくり、慎重に、踏みしめて歩いたのは初めてだった。
 それでも不快な気分にならない。黒髪の少年は、女の子の流れる金の髪を目で追った。
 女の子は髪を纏めることなく背中に流していたが、耳の横に小さな赤薔薇を一輪、飾っている。
 神々の愛を一身に受けて生まれてきたような綺麗な子。この世にこんな存在がいるなんて知らなかった。
 くすんで艶のない自分の黒髪。栄養失調で痩せた貧相な身体に不具合な貴族の衣装を無理やり身に着けている自分と比べて、少年は落胆して恥ずかしくなった。
 分相応ということを思い知らされるような気持ちだった。
 ゆらゆらと揺れる金糸の髪が、光を反射して、きらきらと色を変える。
 少年は無意識に、眩しげに目を細めた。
 気が付けば、女の子の足は止まっていた。黒髪の少年の足も止まっていた。
 見れば、そこは出口だった。遠くに立派な外装の屋敷が見える。
 黒髪の少年は、柔らかく温かい温もりが離れていくのに我に返り、思わず女の子の手を握り締めた。
 女の子は、不思議そうに黒髪の少年を見上げた。
 まっすぐ向けられた深紅の瞳に見入り、少年は喘ぐように呟いた。
「どうしていいのか分からないんだ」
 女の子は首をかしげた。
「俺は、どうしたらいい…?」
 初めて会ったこんな小さな女の子に何を言っているんだと思った。自分でも分からなかった。けれど口に出した言葉は、かけねなしの本心だったのだ。
 今まで泥沼のような汚らしい場所で生きてきた。いきなり連れてこられた場所に自分らしくもなく戸惑っていた。誰でもいいから縋りたかったのかもしれない。
 でも周りにいる大人たちには弱みを見せたくなかった。少年にだって小さくても誇りというものがある。だが、この女の子には何故か素直に問いかけることができた。
 渦巻く気持ちが女の子に分かるわけがないのに。
 女の子は、少しだけ考えるような仕草をすると、開いている片方の手で自分の髪を飾っていた赤薔薇を丁寧に外し、黒髪の少年に握られている方の手をくいくいと動かした。
 黒髪の少年は、その動作につられるように、腰を屈めた。すると女の子は黒髪の少年の胸ポケットにその赤薔薇を挿しいれた。
 流れるような一連の仕種に黒髪の少年は目を丸くした。女の子はにっこりと笑う。
 それは大輪の薔薇が咲き誇ったように美しい笑顔だと少年は思った。
 黒髪の少年は女の子の手をおずおずと離して自分の手を胸ポケットへと持っていき、そっと小さな赤薔薇の花弁を撫でる。
 ふわりと芳しい香りがした。
 女の子は嬉しそうに笑っている。
 黒髪の少年は、女の子の視線に合わせるようにしゃがんだ。
 壊れ物を扱うように、女の子の小さな手をうやうやしく取り、その手の甲に口付けた。
 黒髪の少年の動きがぎこちないのは慣れていないからだ。
 儀礼用の挨拶など今までしたことも無かったからである。
 それでも少年は精一杯の心を込めて女の子に跪いた。
「いつか、いつかまた会えたらその時は―――…」
 濃密な甘い香りが緩やかな風に乗って、黒髪の少年と女の子を包み込んだ。


 

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