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汝、その薔薇の名

3.辺境の田舎で


 ゆるやかに起伏する田園地帯は緑におおわれた肥沃な土地だった。なだらかな丘に包まれるように農家が点在している。
 吹いてくる風をうけて回る風車の音がゆっくり響くなか、馬が荷馬車を引いている。
 パン焼きかまどの二本の煙突からは煙が立ち昇っている。
 どんどんと上がっていくその煙を、高い位置で見ることができる建物はそうはない。
 荘園耕地の中心に建つ領主の館が、唯一といっていいかもしれない。その領主の館の二階の一室で、顔を蒼白にしている男が居た。男の立つ背後にある窓からは、パン焼き竃の煙突から上がった、ゆらゆら揺れる煙が見てとれる。
 男の顔は朗らかに笑う農民たちとはまったく正反対の表情である。
 顔面蒼白、茫然自失の体であった。
 男の名はジョン・アーノル。このコルスタンの領主である。
 四十を過ぎた小柄な身体の首の上には丸い顔が乗り、そばかすの残った鼻とちょっと垂れ下がった目元がある。
 手も足もひょろりとしているが、身体つきはしっかりしていて、服の上からも武芸を嗜んでいる事が分かる。それもその筈で、田舎の領主といえども貴族であり、一国に仕える騎士なのだ。一度戦がおきれば剣を携えて戦場へ向かう。日々の鍛錬を怠る事はない。
 だが、アーノルは変わった領主としてコルスタンではちょっとした名物であった。
 何処が変わっているのかというと、農民と一緒に鍬を持って作物を耕すのだ。
 貴族でありながらである。
 勿論領主としての仕事もあるので、時間が空けば農民に混じるのだ。
 アーノルは平然と農民の仕事に精を出し、今では領民たちも慣れたもので、気軽に話を交わしている。貴族としては風変わりな男であったが、農民からは慕われていた。
 コルスタンは政治の中心である王都から離れた場所にある。辺境という言葉がぴったりの田舎で、滅多に人が訪れる事もない。
 王都に近い領地や、国益に繋がる領地を持つほど、貴族の地位が高い事を示す。
 つまりコルスタンは、宮廷の貴族たちから見れば、「見捨てられた、寂れた、ど田舎」という事になる。そんなコルスタンへとアーノルがやってきたのは、今から十二年前のことだった。アーノルに両親はいない。妻も居ない。したがって子供も居ない。
 王命によりたった一人での赴任であった。
 アーノルの家系は王族に仕える由緒正しい血筋の貴族である。
 早くに両親を無くしたアーノルは、十四でその家名を継いだ。
 幼くても一家の名を継いだからには、家を支えていく義務があった、同時にアーノルは誠心誠意、王家に奉仕した。ところが、王家に何年も尽くしたアーノルに、突然王都から遠く離れた辺境コルスタンへの赴任が、ウィリアード一世から命じられた。
 誰が見ても明かな左遷である。
 当時、周りは口々にあることないことを、面白おかしく言った。赴任理由を国王もアーノルも語らなかった為、さらに噂は酷くなった。しかし、アーノルはそんな事を気にしなかった。
 周りにどういわれようが本当の理由は心奥深くに沈めて自分だけが知っていればいいのだ。最後に見たウィリアード一世の瞳を見て、その思いを強くしたアーノルは、与えられた役目を熟した。それが自分にしかできない事だったから尚更である。
 それでも五年前、ウィリアード一世の訃報を聞いたとき、アーノルは心臓が止まるかと思った。あまりにも突然だったからだ。
 国王は六十六歳であったが、病知らずという言葉が似合うほどの生命力を感じさせる人だったから尚更である。その直後に王都では王位をめぐって後継者争いが勃発した。
 何故なら国王には王子も王女も居なかったのである。否、以前はいた。
 しかし、唯一の王位後継者であるリチャード王子は既に死亡していた為、事実上、王位継承権を持つ跡継ぎが存在しなかったのである。
 アーノルは迷った。
 王都に戻るべきか、それとも自分に与えられた使命を続行するか。
 自分には王族たちの骨肉争いを止めるだけの切り札がある。これ以上この国で無用な争いを避ける為には、その切り札を持って王都へ行くべきことは分かっていた。しかし、それはウィリアード一世の願いを裏切る事になる。
 歯噛みする思いで苦悩の日々をおくり、その間、食べ物もろくに喉を通らず、随分焦心したが、思わぬところからその迷いは正された。
 アーノルに、一目を忍ぶ様に内々に会いにやってきた使者から渡されたものを見たおかげである。それはアーノルが仕えるべきただ一人の人からの、今は亡きウィリアード一世からの遺言状であった。その遺言状はアーノルへの為だけに書き記されていた。
 苦心は何処かに吹き飛んで、腹が決まった。内乱で失われるかもしれない命を見捨ててアーノルはコルスタンに留まったのだ。
 一度こうと決めたら、不言実行の忠義に熱い男である。
 そんなアーノルが、顔を蒼白にさせて、がたがたと震えていた。手には白い封筒と、その中から取り出した一枚の手紙が握られていた。白い手紙はつい先ほど王都から急報として届いた物である。
 白い封筒の蝋は赤、印は薔薇。永遠の深紅は至高の色。
 ヴィクトリア王家の紋章である。
 さらに言うならば、この蝋印はヴィクトリア王家の数ある王族の中で、誰でも使えるわけではない。この国の、最も高貴な人のみが使える紋章なのである。
 アーノルは崩れ落ちそうになる足を叱咤し、もう一度手紙に目を通した。
 そこには、角ばった、いかにも神経質そうな筆跡が踊っていた。
 何度読んでも手紙の内容は変わらない。ぐしゃりと良質の紙が潰れた。
 アーノルは潰れた手紙を握ったまま堅く握った両手を額に当てた。
 声にならない嗚咽が漏れた。
 アーノルは何時までも棒のように立ったままではなかった。
 何とか立ち直ると、目まぐるしく頭を回転させて、今自分にできることを考え始めた。
 椅子に腰掛けて、皺のよってしまった手紙を丸いテーブルの上に広げた時、扉がこんこんと叩かれた。アーノルは我にかえって顔を上げた。
「アーノル小父様?」
 アーノルは、慌てて手紙と封筒を懐に入れると、大またで歩き扉を開けた。
「ああ、よかったいらっしゃった。こちらだと伺ったのにいらっしゃらないかと思いました」
 帽子をかぶった質素な身なりの少女が立っていた。
 少女は鐔の大きな帽子を取った。すると、さらりと軽やかに、金の流れが零れた。
 そこに居たのは年頃の少女だった。風が吹いたら飛ばされてしまうような儚い風貌。
 今まで帽子の中に隠しこんでいた腰よりも長い髪は、後ろで一つに結っている。
 その髪は、眩いばかりの金髪で、一本一本が細い。
 まるで金糸の川が流れているようにも見える。
 少女の顔はまるで美の女神が降り立ったのかと思うどに可憐だった。
 形のいい眉も、頬紅も塗っていないのに薔薇色である頬も、朱をさしていないのに紅く潤った唇も、くっきりとしている目元も、驚くほどに整っている。
 白く真珠のような肌も若々しい。
 何より、儚い風貌の中で最も生命力に溢れたその目は、深紅の輝きを放っている。
 見比べれば上等の紅玉さえも霞むほどの美しさである。
「エリーゼ、ああ、すまないね、気づかなかったんだ。もう年かな」
「まあ、そんなことおっしゃって。アーノル小父様はまだまだ若いですわ」
 にっこりと微笑んだエリーゼにアーノルも笑った。
「今日はどうしたんだい」
「ベリージャムを作ったんです。よかったらと思って。あと、こちらのお庭をお借りしようと思って薔薇の苗を持ってきたんです」
 エリーゼは手にかけていた小さ目の籠をアーノルに渡す。布を捲って見れば中には作りたてのジャムの瓶がいくつか入っていた。
「エリーゼの作るジャムはとても美味しいからね、喜んでいただこう」
 エリーゼは嬉しげに笑い頷いた。
 アーノルはエリーゼを促して室内へと入ると、テーブルの上へと籠を置いた。そしてエリーゼの持っている大きな麻の袋をさして笑いを零した。
「それで、そちらの袋の中身が薔薇の苗かな?」
「はい」
 エリーゼは、かなり重量があるだろう袋を楽々と持ち上げている。
 儚い風貌とまったく一致しない行動に、慣れていても苦笑が漏れた。
「できれば直ぐにでも移植したいのです、よろしいでしょうか」
「ああかまわないよ」
「ありがとうございます、アーノル小父様」
 花の咲き誇るような笑顔だった。
「エリーゼの作った庭は、今ではちょっとした見ものになっているよ。小さいが、薔薇園といっても差し支えないぐらいだ」
「丹精込めた庭ですもの、そう言って頂けると、世話をしたかいがあります」
 エリーゼは、麻の大袋を丁重に床に置くとアーノルを振り返った。
「ところで、今回はどんな薔薇かな?」
「シンベリンです」
「具体的には?」
「魅力的なグレーピンク花弁をつけるんです。花は大輪で、香りは少し個性的ですよ」
「ほう、グレーピンク。少し珍しいな」
「ええ、そうなんです。きっと綺麗ですよ」
 アーノルはやってきた従僕に茶菓の用意を言いつけたが、エリーゼは申し訳なさそうにする。
「小父様、私、移植が終えたらすぐにおいとましますのに」
「まぁそう言わずに、私のおしゃべりに付き合ってくれないかい?」
 そう言われると拒めない。エリーゼは厚意に甘える事にした。
「私でよければ喜んで」
 アーノルは、まるで孫娘を見つめる好々爺のように優しく微笑んで頷いた。
 運ばれてきた紅茶は、ほこほこと湯気をだしている。
 注がれた紅茶のほのかな甘い香りが漂った。
 茶菓子として目の前に置かれたベイクウェル・タルトに、エリーゼは自然と笑みを浮かべていた。アーノルもエリーゼの視線に気づいた。
「使ってあるジャムは、前に持ってきてくれたものだよ。お茶の時間には、とても重宝してる」
「今日持ってきたジャムも自信作なんです」
「今からたのしみだよ」
 温かい紅茶を口に含むエリーゼを見ていたアーノルは、不意に真剣な表情になって居住まいを正した。
「エリーゼ」
 呼ばれたエリーゼは白地の陶器から口を放した。
「最近、変わった事は無かったかい」
「とくには、婆様の憎まれ口も妖精たちの無茶難題な性格もいつもどおりで平和ですよ」
 首をかしげて話すエリーゼにアーノルは「そうか…」と呟いた。
「永久の森に入った者もいないね」
「小父様、そんな命知らずはめったにいませんよ」
 エリーゼは苦笑した。
 コルスタンは辺境にあるため付近には村一つない。近くの村まで馬を使って丸一日かかる。王都や主要な都市のように、城壁なんてものは一切ない。だから一歩村から出れば、何処を見ても人の手がまったくついていない大自然が広がっている。
 林もあれば川もあるし丘もあれば直ぐそこには森が広がっている。
 エリーゼの住んでいる森だ。この森はかなり深い。コルスタンの者も、その森の奥には滅多な事では立ち入らない。何故ならその森は妖精たちの領域であると信じられているからだ。
 その森は、地元の人たちから、帰らずの森、もしくは永久の森と呼ばれている。
 永久の森は古くからこの地に恩恵をもたらす森で、人々にとってなければならないものである。その反面、決して立ち入る事は許されない境界というものがあった。
 森はその恵みを人間に与えてくれるが、その境界を一歩でも破ればたちまち人間に牙を向くというのだ。それを証明するように、森の中、さらに奥深くに入った者は決して出てくることがないのである。いや、出られなくなるというのが正しかった。
 何故なら森に入りすぎて行方不明になった者たちは、一月、二月すると、骨となり森の入り口付近にひっそりと置かれているのである。その骨は人の形を残したまま服を着ている状態で突然現れるのだ。だからこそ永久の森は妖精の住処だとされている。
 人間の住処と妖精の住処を永久の森が区別しているのだといわれているのである。
 その為、コルスタンの者は永久の森の境界を侵さない。敬意をもって接している。
 キャサリン・ジーナの小屋は、その永久の森でも人の手の届かない奥深くに作られていた。永久の森は、外からの侵入者には厳しいのだが、キャサリンとエリーゼには寛大だった。森への出入りが可能なのだ。
 しかし、エリーゼは滅多に森の外へと出ない。引きこもりである育ての親の真似をしている訳ではないのだが、何故か足が向かないのである。積極的に出ようとも思わない。
 出るときは、キャサリンに使いを頼まれたときだけである。
 今日のように、アーノルの館へと用事がある場合も、キャサリンの許可がないと出られないが、それも滅多にあるわけではない。可笑しな事だが、エリーゼはその状態を甘んじて受け入れていた。
 アーノルは、エリーゼが、初めて森の外に出た時、偶然出会った人だ。
 くすりと笑いを漏らしたエリーゼに、アーノルが「どうしたんだい?」と尋ねた。
「いえ、小父様と出会ったときのことを思い出しまして」
 くすくすと思い出して笑う。
「あの時、目に見たものが全て新鮮で、あっちへふらふら、こっちへふらふらとしてたらいつの間にか迷子になってしまったんですよね」
「そういえば、そんなこともあったね」
「婆様から言いつけられたものも買ってないのに、何時の間にか辺りは夕暮れ時になっていて」
「女の子が道端で途方に暮れたように棒立ちになっていたから、私は何事かと思ったんだよ」
 エリーゼはテーブルに手に持っていた陶器をゆっくり下ろした。
「だって、自分がどこにいるのか分からないし、お使いが果たせてないことで婆様に怒られるだろうとか色々考えてて、もうどうしようかと思っていたんです。そしたら目の前に鍬を持った男の人が現れて、あの時の小父様は私にとって救世主でした」
 アーノルは眉をハの字に曲げたが、目は笑っていた。
「鍬を持った救世主かい?」
「ええ、まさに」
 数秒見詰め合うと二人同時に噴出した。
「あの後、婆様にはこってり絞られたんですけど、小父様と知り合うことができたんですもの。帳消しです」
 エリーゼは悪戯っぽく笑った。二人で、思い出話に花を咲かせていると、話の句切りにアーノルが少し間をあけてから尋ねた。
「エリーゼ、今の生活は不自由ではないのかい?」
「いえ、全然」
 あっさりと即答した。
「確かに一緒に暮らしている婆様は、口を開けば罵詈雑言で、食事も洗濯も掃除もしないですけど」
「そ、そうかい」
「でも何だかんだ言っても私を育ててくれました。ほんとに邪魔だと思ったなら放り出せたはずなのに。私、婆様には感謝しているんです。」
 アーノルに静かに見つめられて、エリーゼは慌てて付け加えた。
「本当に、私は不自由なんて思ってません。むしろ毎日が楽しい。好きなだけ大好きな薔薇のことを考えていられる今の生活は、充実しています」
「そうか……」
 噛み締めるように呟いたアーノルに、エリーゼは困惑した。
「あの、何かあったんですか?」
 驚いて顔を上げたアーノルは真剣な表情で見つめてくるエリーゼに笑った。
「何もないよ、どうしたんだい急に」
「いえ、何だか消沈しているご様子に見えて…」
「心配してくれたのかい?」
「当たり前です!」
 憤慨するエリーゼに、アーノルは首を振った。
「昨日徹夜してね、疲れが溜まっているのかもしれない」
 疑わしそうにするエリーゼだったが、何を言っても無駄だと悟り眉を下げた。
 頼って欲しいなんて思っていない。けれど、親しい人が何か悩みを抱えていて落ち込んでいるなら、力になりたいと思ったのだ。
 子供だと思われているのかもしれない。何も出来ないかもしれないが、愚痴ぐらいは聞けるのに。
 アーノルは、そんなエリーゼに気づかず、掛け時計を見やり「もうこんな時間か」と言ってエリーゼを促した。
「エリーゼと話をしていると楽しくてついつい時間を忘れてしまう。これから薔薇の苗を移植するのだろう? ではもう切り上げないとね」
「はい、小父様。ご馳走様でした」
 アーノルに短く分かれを告げると、エリーゼは室内を後にした。


  

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