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汝、その薔薇の名

6.噂の伯爵令嬢 5


 エリーゼが広間へ行くと、そこではフリードリッヒとミハエルがお茶をしながら談笑している最中だった。
 給仕をしている侍女がエリーゼに気が付き、恭しく頭を下げて下がる。どうやらエリーゼの分も取りに行ってくれたようだ。
 フリードリッヒが手招きをしながら待っているので、エリーゼは近づいていく。
「ダンスの授業は終わったのかね?」
「はい」
 フリードリッヒの隣にちょこんと座り、何のお話をしてたのだろうかと思った。確か、フリードリッヒは用事で朝から外出すると朝食の場で告げていた筈だ。
「用事は済んだのですか?」
「うむ。なに単なる私用だ。すぐに済んだ。その帰りにアルスターのところに寄って来たのだがね、エリーゼ、どうやらアルスターは諦めておらんようだぞ。すでに着手し始めておった」
 にやりと見られてエリーゼはあちゃっと手を額に当てた。
「本当ですか? あれだけお断りして拒否を現したつもりなのですが」
「拒否したところであの御仁の熱意が冷めやるものか? 君が折れるしかないさ」
 ミハエルは苦笑しながらエリーゼに助言した。
「私なんかを描いて何になるんですか?」
「……君は十分魅力的な被写体だと思うが…」
 真面目に悩むエリーゼにミハエルは小声で付け加えた。
 エリーゼの芸事についての教師であるアルスター・レントはマギステル卿とレディ・アテルダと違い、この館に滞在していない。
 アルスターもまたフリードリッヒと同じく王都郊外に居を構えていた。ここから意外と近い場所で、そこから通ってきてくれているのだ。
 あらゆる芸術に精通しているアルスターはエリーゼに楽器での演奏から詩、歌謡にいたるまで教示しているが、本来、彼の老人は芸術家――画家なのだ。
「見た目だけは穏やかな老人そのものだが、ああ見えて好き嫌いがはっきりしているあの頑固者がエリーゼにはまるで孫を可愛がる祖父のように接するのだから笑いを堪えるのに大変だった」
「…堪えていなかっただろう、あれは絶対面白がっていた」
「何か言ったかね?」
「いや、別に」
 フリードリッヒがミハエルを見れば、ミハエルは素早く視線を横に外した。フリードリッヒは何事もなかったようにエリーゼに視線を戻す。
「随分気に入られたな、エリーゼ。アルスターは我輩が知るなかで最も優れた画家だ。アルスターに筆をとる意欲を抱かせるとは滅多にできることではない」
 どうやらアルスターはエリーゼをことのほかお気に召したようで、自分の被写体にならないかと熱心に誘われていたのだ。
 顔を合わせる度に話題に上がり、エリーゼは何度も丁重に断っていたのだが、ならば肖像画ならどうだと言われ、答えに瀕した。
 なんでも貴族の女性ならば自分の肖像画の一枚や二枚や三枚…ぐらい持っていなければおかしいとのことだ。
 フリードリッヒとミハエルに聞いてみれば、一枚ぐらい持っていてもいいんじゃないかとそれとなく諭された。味方はいない。エリーゼは悟った。
 フリードリッヒは面白がっている――こうなったこの人には何も通じない――が、ミハエルは真剣にエリーゼの事を考えての意見のようだった。
 貴族は顕示欲を示す傾向が強く、それは人や物や土地に関しても例外はない。
 あらゆる意味で目立つファルツ家に養子として入るのならば、この後、茶会や舞踏会、夜会などに招待されることもあるかもしれない。その反対にこちらから相手を招いたりする必要も出てくる。その時、家に飾っておく肖像画がなければ疑問に思われるかもしれないというのだ。
 確かに、この館にも肖像画が飾ってある。何代も前のファルツ家の当主たちがこの館に住んでいる者たちを見下ろしている。だが、聞いたところによると、飾ってあるのはファルツ家の中でもごく一部の当主たちだけだという。
 人の喧騒が嫌いで本宅を離れ、郊外に造ったこの館に移った当主たちは皆変わり者ばかりだったのか、肖像画を残すことなく没した当主も大勢いるらしい。
 現在の当主であるフリードリッヒも自分の肖像画を残すということを考えもしなかったらしいが、ミハエルの苦言により作成したそうだ。
 玄関ホールの階段正面に飾ってある。
 それを聞いて、エリーゼはどうしようかと考えていた。
 そして考えているうちに、アルスターは勝手に絵を描きだしている模様だ。
 もう自分の許可も何もないんじゃないかとエリーゼは思った。
「元来、アルスターは描きたい時に描きたいものしか描かない主義で有名だ。その主義を通す徹底ぶりは、王家専属画師の座をいらないと言ったことからもうかがえるな」
「そんなこと言っちゃって大丈夫なんですか?」
「通常なら不敬罪だな」
 引き留める先国王を無視して隠居した自分を棚にあげてあっさりとフリードリッヒは言った。
「だが、他国にも著名な天才画家を申し出を断られたからという理由で罰するのも外聞が悪かろう? ヴィルバーンの器量が知られるというものだ」
 フリードリッヒは「さてはて」と続ける。
「エリーゼに用事があったのは我輩ではなくミハエルの方ではなかったかね?」
「そうでした。用事ってなんですか?」
 侍女が用意してくれた紅茶を堪能しながらエリーゼはミハエルに聞いた。
「いや、大したことではないんだが…、君の馬を見に一緒に行かないかと思ってね」
「馬?」
 エリーゼがパッと顔を上げた。
「君の馬術の腕を見て、君専用の馬があってもいいんじゃないかと思ってね。フリードリッヒに話したら良い案じゃないかと」
 フリードリッヒとミハエルの顔を交互に見てエリーゼは「本当に?」と念を押した。
「なに、これも必要経費だろう。金ならば一生使えないぐらいあるのだ。我輩が用立てるので好きなものを見つくろってくるがいい」
 エリーゼはわぁっと歓声をあげてフリードリッヒの首にしがみついた。
「ありがとうファルツさん!」
 フリードリッヒは口の端を上げて、しがみついてきたエリーゼの頭を軽くぽんぽんと叩いた。
 顔を上げたエリーゼはフリードリッヒの底なし沼のような漆黒の瞳を見返して花開くような満遍の笑みを浮かべた。
「礼ならばミハエルにいうといい。ミハエルが提案してきたのだからな」
「もちろんです!」
 そう言うやいなや、今度はミハエルに飛びついた。勢いよくぶつかってきたエリーゼをミハエルはなんとか抱きとめる。
「ありがとうミハエル! 私、すっごく嬉しい!」
「喜んでもらえて何よりだ。君は馬が好きなようだからね」
「動物は好きだよ。とくに馬は友達に最適だもの」
「友達?」
「うん」
 不思議そうにするミハエルにエリーゼはにっこり笑った。
「それはよろしゅうございました…けれどレディ・エリーゼ?」
 冷やかな声にエリーゼはぎくりとした。
 恐る恐る振り返れば、扉の所にレディ・アテルダが鬼のような形相で…普通に立っているだけだがエリーゼにはそう見えた――仁王立ちしていた。
「淑女たるものが殿方に飛び乗るなど何ということですか!」
 雷が落ちた。

 ファルツ家の館にレディ・アテルダの盛大な雷が落ちた次の日。
 前日にレディ・アテルダからお説教された筈のエリーゼはにこにこと上機嫌だった。
 その場にいたミハエルは、レディ・アテルダに淑女としての振る舞い云々をくどくどと言い聞かされていたエリーゼが、叱られた子犬のようにしょんぼりとしていたのを見ていただけに、女の子は変わり身が早いと苦笑した。
 館の広い玄関の正面に横付けされているピカピカと光る黒塗りの馬車の扉を御者が開けた。
 エリーゼは好奇心を窺わせながらも頭にかぶった大きな帽子を手で押さえながら、差し出された御者の手を借りて馬車の中へと入る。
 続こうとしたミハエルだったが、館から出てきたマギステル卿に気がついて足を止めた。
 いつも洒落た装いのマギステル卿だが、今日はまるでちょっとした旅行にでも出かけるような動きやすさを重視した装いだ。それでもこの男はぴしっと着こなしているが…。ミハエルは訝しげに近づいてきたマギステル卿を見た。
「どうしたんだ?」
「私もついて行こうかと思ってね」
「正気か?」
 驚いてミハエルは目の前の男をまじまじと凝視するとエリーゼを一瞥してから声をひそめた。
「今の君は表向きは謹慎中の身だろう。ここにいること自体知られるとまずいだろうに、外に出ているところを見られたりしたらどうする」
「そんなに深く考えるなってミハエル。ハゲるよ」
 むっとしてミハエルは口を開こうとしたが遮られた。
「心配するな。今から行くのはどうせノスタルジアなんだろう? そこに私の知人はいないし、私が誰だか分かる人間なんてそうそういないさ」
 堂々としていれば意外とばれないものさ、と笑うマギステル卿にミハエルは頭を抱えたくなった。
「フリードリッヒは知っているのか?」
「一応は声をかけてきたが」
「……」
 どうせ「ちょっと出かけてきます」と声をかけ、フリードリッヒは「うむ」とマギステル卿を見もせずに応じたに違いない。
 ミハエルは頭をかきむしりたくなったが、エリーゼに「ミハエル? どうしたの?」と声をかけられたので長々と溜息をつくだけにしておいた。
「マギステル卿も行くことになった」
「よろしくエリーゼ」
「こちらこそ」
 エリーゼはなんの疑問も持たず軽く手を振ってマギステル卿に応えた。
 従僕が手綱を引いて支度を済ませたマギステル卿の馬を連れて来た。
「用意のいいことだ…。いったいどういう風の吹きまわしなんだ」
「ちょっと気になっただけさ」
「何がだ?」
「昨夜、私の従者が訪ねて来てね。…もちろん人目は避けてだ」
 ミハエルの厳しい視線を受けて付け足した。
「どうやら城下で噂が立ち始めているらしい」
「………早いな」
「遅いくらいだろ」
 マギステル卿は鼻で笑った。
「ファルツ伯爵は手回しがいいから大丈夫だとは思うが、念のため…かな」
 マギステル卿は女性がうっとりとするような微笑を浮かべながらも低い声で淡々と言った。
「火のないところには煙は出ない。貴族院を抑え込んでおくのも限界がある。むしろ、ここまで抑え込んでおけたこと自体ファルツ伯爵だからできたことだ。これから騒がしくなるって時にエリーゼに何かあっても困るからね」
「わかった」
 ミハエルは頷いて馬車へと乗り込んだ。身体を折り曲げてエリーゼの向かいの座席に座る。それを見届けた御者が扉をパタンと閉めた。
 外ではマギステル卿がひらりと自分の馬に跨った。それを窓から見ているとガタンと馬車が揺れて動き出したのでエリーゼはわくわくと目を輝かせた。
 馬車に乗ったのは――この館に連れてこられた時のことはほとんど放心していたので覚えていないし、馬車を堪能する状況でもなかった――これが初めての経験になる。
 馬車の中は豪華な内装で、クリーム色の天鵞絨が張られている。内壁には作りつけの物入れまであった。座席には房飾りがついたクッションが無造作に置かれており、凭れかかるとふかふかとした反応が返ってくる。
 全身で喜びを表すエリーゼに思案顔だったミハエルも思わず顔がほころんだ。
「気に入ったかい?」
「はい。すごく! この馬車はやっぱりファルツさんの持ち物なんですか?」
 乗り込む前に馬車の車体に、左右対称の五枚の花弁が特徴の菫を象ったエンブレムが銀で施されていたのをエリーゼは確認していた。ファルツ家の紋章は菫の花だ。
「そうだよ。…ああみえて趣味はいいんだ」
 実用的ではないが、心地よさを醸し出している内装の事を言っているのだろう。
「私は普段、自分の馬で出かけるか辻馬車を使用するかしているんだが、今回は行く場所が場所なのでフリードリッヒがこの馬車を貸してくれたんだ」
 エリーゼは窓の外を見ながら――時折マギステル卿に手を振りつつ――聞いてみた。
「そう言えば、どこで馬を見せてもらえるんですか?」
「ノスタルジアだ」
「ファルツさんの領地ですね。それでこんなに朝早く?」
「ああ。途中休憩しながら行くから向こうに着くのは昼を過ぎるだろう」
 王都アスタインから五時間ほど馬車に揺られたところにノスタルジアという土地はある。
 エリーゼは窓から視線を外してミハエルを正面から見た。
「楽しみです」
「私もだよ」
 館に残ったフリードリッヒの顔が心の中に思い浮かび、一抹の不安はあるもののミハエルも頷いた。


  

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