v i t a

汝、その薔薇の名

7.赤燐の盗賊 1


 空気は湿り気を帯び、暮れゆく太陽は木立に遮られていた。
 突き出している枝を避け、地面からせり出しているむき出しの木の根を踏み越えて前に進む背中を見ながら、エリーゼは周りを窺った。
 鬱蒼と茂る森の中は夜の気配と相まって暗く、重苦しいが目の前の背中はどんどん進む。
 森の中の足場は悪い。地面は平坦ではないからだ。段差やくぼみ、草むらだけではない。石が転がっていれば、倒木や切り株がある。
 それらが見えないのだ。太陽が照る昼間ならばともかく、今は暗闇が支配する時間である。
 月と星の明かりだけがたよりだが、森の中では少々心伴い。人の目はそこまで機能的にはできていない。
 にもかかわらず、目の前を走る男は器用にそれらを避けている。この森に精通しているのがうかがえる。
 手を握られているから必然的にエリーゼも男のスピードに引きずられているのだが、こちらも器用に障害物を避けているので二人の走る速度は一定だった。
 どのくらい森の中を走ったのか、男は唐突に走る速度をゆるめた。そして身体を捻るようにしてエリーゼを振り返ると手振りで前方を示し、茂みをかき分けるようにして進んだ。
 エリーゼも無言でそれに続く。現れのは草木に隠された洞窟だった。
 男が先に行けと手振りで示してきたので、エリーゼは注意深く洞窟の中に入った。
 後から入って来た男は手慣れた様に出入り口を元に戻している。
 しばし月の明かりが届かない完全な闇がエリーゼの視界を覆ったが、チリッという発火音がして小さな火花がパッと弾けた瞬間、洞窟の中は明かりによって照らし出された。
 男はいつのまにか手に松明を持っていた。ごつごつとした壁にくくり付けられている別の火種へと火を移し終えると、松明を作り付けの腕木に固定した。
 おもむろに男は奥まった場所に行くと地面を掘り返し始めた。
 きょろきょろと顔を動かし洞窟の中を観察していたエリーゼも好奇心に駆られて男の背後からのぞき込む。
 出てきたのは中身が詰まった麻袋だった。
 しっかりと閉められていた袋の口を開けて、男は非常食用だろう乾物や木の実を取り出すと胡坐をかいて地面へと座った。
「あんたも座わんな、疲れたろ」
 エリーゼは素直に腰をおろした。
 エリーゼを下から上へとじっと見て――三つ編みにして背中へと流してある見事な金の長い髪はほつれかかり所々に枝や葉がついているし、上等な仕立てのドレスは裾は泥まみれ、埃が付着し、袖は枝にでもひっかけたのか破れて糸がほどけている――男は息を吐いた。
「悪かったな、森ん中を引きずりまわしちまった。あんたを巻きこむ気はなかったんだが…」
 やれやれと肩を落とし、ターバンの上から頭をガシガシと掻く男の様子を見ながら、エリーゼはなんでこんなことになったのだったかと思い返していた。

 ファルツの館を出発しノスタルジアへと向かうちょっとした馬車での旅路は比較的穏やかだった。
 馬車は時折でこぼこ道でがくんと揺れてエリーゼは座席でお尻を打ったが、窓の外で通り過ぎる風景には飽きることはなかったし、ミハエルとの会話も途切れることはなかった。
 途中、街道筋の宿屋で二度ほど休憩をとった。馬車になれないエリーゼに気を使ったのだろう。
 馬車は設備が整っていて、発条もよく利いたが、道はそうはいかない。それに馬車を引く馬にも休息をやらなければならなかった。
 休憩している間にマギステル卿と馬の具合を診たり、女中が運んできた軽食で腹を満たしたり喉を潤したりした。
 そうこうしている間に、ノスタルジアに到着した。予定より早く、正午を過ぎる前には着いた。
 川沿いの街道を通り過ぎると見渡す限りの麦畑が広がり、その向こうに寄せ集まるようにかたまっている家並みが見えた。
 馬車は小高い丘に造られた大きな館の前で止まった。
 御者が外から扉を開け、エリーゼとミハエルが馬車から下りると、レシンという男が待っていた。
 よく日に焼けた肌と老いを感じさせない筋肉質な身体を持つ四十過ぎの穏やかな笑みを浮かべる男で、ミハエルは彼をノスタルジアの領主代行だと紹介した。
「フリードリッヒはめったなことでは王都から出ないんだが、それだと領地の管理がおろそかになってしまうだろう? だからフリードリッヒの代わりにレシンがこの土地を治めてくれているんだ」
「及ばずながら、ファルツ伯のお手伝いをさせていただいておりますレシンと申します。どうぞ、お見知り置きをお嬢様」
「エリーゼです。お世話になります」
 握手を求められたのでエリーゼはにっこり笑って応じた。マギステル卿とミハエルはレシンとは顔見知りのようで気軽に挨拶をしていた。
 屋敷の中へと案内されて、昼食を済ませると今回の目的でもある馬を見に行こうということになり、エリーゼは喜んだ。
「ここノスタルジアは良品質な馬の名産地なんだ」
「そうなんですか?」
「よく調教された馬というのはとても貴重でね、ノスタルジア産の軍馬は王宮にも献上されるほどだ」
 ミハエルの称賛にレシンは頭を下げた。
「ありがとうございます。我々ノスタルジアの人間は馬を育てることに誇りを持っております。しかしながら世界は広い。中央大陸にはどんな軍馬をも唸らせると言われる駿馬がいるそうですよ」
「パルティアの馬の事か?」
「はい。つい先日、中央へと買い付けに行った者が見つけてきましてね」
「ここにいるのか?」
 ミハエルが驚きに目を見張った。
 エリーゼは首を傾げた。
「パルティアの馬?」
 パルティアは中央大陸の遥か南にある国だ。暗黒時代に活躍した中央の四大大国の英雄たちと同時期に存在した有名な国王がいたはずだ。確か《太陽王》と呼ばれた国王だったはず。
 フリードリッヒとの授業で教わった知識を思い出していると横を歩いていたミハエルが口を開いた。
「パルティアには草原に生きる民と呼ばれる騎馬民族が存在するんだ。パルティアの王家の祖先も数多いた遊牧民たちを率いた勇猛な族長だったらしい」
「そのなごりでパルティアの王家の子供は幼い頃から馬と接することが多いらしいよ。なんでも生まれた子供に一番最初にさせることが馬に乗せることだとか。落ちて馬に蹴られたら即死だけど」
 前を歩いていたマギステル卿が茶化した。レシンが苦笑する。
「パルティア産の馬は中央大陸でも一等高価なのです。パルティアの馬は一日に千里を走るとか」
「もちろんそれは誇張さ。それだけ優れた名馬を輩出してきたからそう言われているんだ」
「はい。しかし品種が良いことには変わりはありません」
「まあね」
 ミハエルも頷いた。
「パルティアの馬の中でも汗血馬という品種があってね。門外不出、パルティアの王家のみに献上される駿馬で、それは素晴らしい馬らしいんだが」
「残念ながら手に入った馬は汗血馬ではありませんよ、赤い毛色ではありますが」
「…そうだろうな」
 残念そうにするミハエルにエリーゼは聞いてみた。
「ミハエルは汗血馬が欲しいの?」
「まさか! ほしいなんて畏れ多い。ただすごく早い馬だと有名だからどんな馬なんだろうかと思っただけだよ。見ることが叶うなら見てみたいとは思うけれど、無理な話さ。市場に出ることはない馬だから」
「そっか…。珍しい馬なんだね。でも、その馬が赤毛なのと汗血馬とどう関係あるの?」
「汗血馬は時に黒血馬とも呼ばれるのです」
「黒血馬?」
 マギステル卿が振り返り悪戯っぽく笑う。
黒血馬ダークホースだよ。赤毛でありながら血よりも黒い馬ってことさ」
「毛並みからの由来ですよ。さて、着きました」
 談笑しているうちに目的地に着いたらしい。
 そこは見渡す限りの草原だった。エリーゼは目を瞬かせる。
 見渡す限りの草原を馬が好き勝手動き回っていた。のんびり草を食べている馬もいれば、悠々と歩いている馬、じゃれあい走り回っている馬もいる。
 てっきり厩舎に案内されると思っていたエリーゼは当てが外れてしまった。エリーゼはレシンに尋ねた。
「ここってもしかして放牧地ですか?」
「はい」
「柵が見当たらないんですけど」
「もとからありません」
「え? 盗難に遭わないんですか?」
「ノスタルジアの人間は皆、自分の馬を持っています。他の馬を盗ろうなんて考えませんよ。もちろん部外者が入ってくる可能性もあるので馬泥棒はいないとは限りません。ですから見張りがいます」
 レシンが「ほら」と指さした方へと顔を向ければ馬に騎乗している人間が何人かいた。彼らはエリーゼたちに気がつくと軽く頭を下げて駆けていく。
「もしかして放し飼いですか?」
「ええ、昼間は殆ど馬の自由にさせています」
 あっさり頷かれてしまった。
 ぽかんとしているエリーゼの頭を帽子の上からマギステル卿がぐりぐりと押した。
「あうっ」
「いつまで間抜け面してるんだい? ノスタルジアではこれが普通なのさ」
「そうなんですか?」
 コルスタンにも放牧地はあったが、放されていたのは主に牛や豚である。もちろん馬も放されていたが、柵が立てられていたし、馬を世話する人間が側についていた。
 柵のない草原での放し飼いなどそうそうお目にかかれるものではない筈だ。
「他では見られませんよね?」
「だろうな」
「だがこればかりは仕方がない。昔からの伝統だしね」
 ミハエルにそう言われてレシンは頷いた。
 ノスタルジアは代々馬にたずさわることで生計を立ててきた。
 ノスタルジアに住む民は馬を愛し、馬に敬意を払っている。人間の良きパートナーである馬を放し飼いにしてあるのは長い時代を経て受け継がれてきた伝統で、そう簡単には破られることはない。
 しかしながらノスタルジアは軍馬で名高い一面があるせいで何度も動乱の波にのまれそうになったという。そして、ノスタルジアはその領地を治める領主の変わり目が早い事でも知られていた。
「ノスタルジアの人間は頑固者が多いからな、何度も領主と衝突を起こしてるんだ」
「何年も領主がいない時期なんてのもあったくらいだからね」
「それで大丈夫だったんですか?」
 領主がいなくても機能していけたのかという問いにマギステル卿はにやりと笑う。
「ノスタルジアには独自の文化があるんだよ。それも昔からの伝統みたいなものなんだけど、住人たちを纏める役目を持つ代表がいる。馬頭と呼ばれる役職さ」
「その馬頭はノスタルジアの住民が皆で選ぶんだ。住民たちは領主の命令よりも馬頭の言葉を重視する傾向がある。それが領主との諍いの原因の一端でもあるんだが…」
「あれ? ちょっと待ってください。…ということは、ノスタルジアは昔からファルツ伯爵家の領地ではなかったんですか?」
「フリードリッヒを見れば一目瞭然だが、あの伯爵一族は極端なくらいのひきこもりだ」
 ミハエルは腕を組んですごんで見せたが目が笑っている。
「領地を賜っても管理が面倒だという理由で返還するぐらいの面倒くさがりでもある。本来なら領地の二つや三つあってもいいぐらいの名門にもかかわらずだぞ?」
「うーん…」
「財産も昔からの貯えがあるからフリードリッヒは領地贈与に無頓着だった。だが、さすがに周囲の目ってのがあるからね、ノスタルジアはウィリアード一世からフリードリッヒが賜った領地なんだ」
 ある意味押し付けられたともいえる。
「ウィリアード一世にしても長い事領主が不在だったノスタルジアを何とかしたかったんだろうな」
「ファルツ伯がはじめてノスタルジアにいらっしゃったときのことは今でも覚えていますよ。ものすごい方が領主になったものだと領民一同驚愕しましたので」
 レシンは思い出し笑いを零した。
「あの時のフリードリッヒの機嫌は最高に悪かった。いつも悪い顔色がさらに凶悪になって、まるで幽鬼のようだった」
 それと対面したノスタルジアの住人たちが気絶しなかったのは奇跡だとミハエルは語った。
「勿論ファルツ伯の外見には驚きましたし不安にもなりました。こういってはなんですが、本当に領主が務まるのかと…しかし、本当に驚かされたのはファルツ伯の第一声でした。あの方は我々の前でこう言ったのです…『我輩は君たちを管理しに来たのでもこの土地を治めに来たのでもない』…と」
 では何をしに来たのか。そう問われたフリードリッヒは何をいまさらそんな事を聞くのだという顔をして淡々と口を開いた。
「ファルツ伯は『我輩はこの土地に住んではいない。住んでいるのは君たちで生活をしているのも君たちだ。我輩はこの土地に関する責任を負う義務があるが、この土地を支配しているのは君たちだろう』…そう言われて我々にノスタルジアの事を話すことを促されたのです」
 どんな些細なことにも耳を傾けて、一通りのことを聞き終えるとフリードリッヒは、当時、馬頭に選ばれたばかりだったレシンに領主代行の任に就かせたのである。
「我々ノスタルジアの領民はファルツ伯が領主になってくださったことに感謝しております」
 口を挟むことなく話を聞いていたエリーゼはにっこり微笑んだ。
 それにレシンも微笑みかえすと見張りをしている男たちを何人か呼びよせて、手綱と鞍をつけた馬を四頭連れてこさせる。そしてエリーゼたちに乗るように促した。
「牧草地にいる馬を見て回るには歩くよりこちらの方が効率的ですから」
 まさしくそのとおりだ。
 騎乗したエリーゼたちはゆったりと馬で移動しながら好き勝手移動している馬たちを見ることになった。
「ほら、そこにいる鬣や尾に黒毛が混じっている鹿毛色の馬はどうだい? 足腰がしっかりしているし、持久力もありそうだ」
「おい、エリーゼが乗る馬なんだぞ。それではまるで騎士が乗る馬の見本じゃないか。それよりあちらにいる栗毛の馬はどうだろう、顔立ちが優しげだ。近づいてみて性格を見てみたらどうかな?」
 マギステル卿とミハエルはお互いに自分が選んだ馬はどうかとエリーゼに薦めてきた。
 エリーゼは二人が選んだ馬を観察してみた。
 うん。どちらもいい馬だ。
「みんなすごくいい馬ですね。きっと環境がいいのかな…いきいきしてるのがわかります」
「ありがとうございます。お嬢様はどんな馬がよろしいですか?」
「そうですね…」
 どう答えようかと悩んでいるエリーゼの視界に、パッと跳ねるような赤い色が飛び込んできた。魅かれるようにエリーゼの視線が動く。
 そこにいたのは見事な赤毛の馬だった。
 エリーゼの目線の先を追いレシンが納得したように頷く。
「あれが先日中央から買い付けて来たパルティアの馬です」
「あれが…?」
 赤毛の馬は引き締まった胴体と筋肉の付いた太い四肢を持っていた。他の馬と同じくらいの大きさだったが、迫力が違うので一回り大きく見える。
「なんだが苛々しているみたい…」
 まさしく。凛々しい顔立ちと理知的な瞳をしているに、荒々しく大地を踏みならし、鼻息が荒い。
「そうなんです。まだ若い雄で連れてきた当初から気性が荒くて、中々慣れてくれないんですよ」
「海を渡ったことで環境の変化の所為じゃないのかな」
「いえ、我々は特に気をつけて世話をしているので、それが理由ならばすぐにわかります。あれは別の理由があるはずなのです」
「元々の性格なのか?」
「パルティアの馬でも温厚な馬はいますよ」
 男たちが意見を交わしている間、エリーゼは首を傾げて赤毛の馬を見ていた。
 おかしな違和感を感じていた。
 なんだかもやもやするかんじだ。首の後ろがむずむずするこのかんじ…。
 エリーゼは目を凝らして赤毛の馬の背中を凝視した。そこだけはぼんやりと暈されている空間を。
 なにかいる…。エリーゼは瞳を細めた。
 すると霧がはれるように《視る》ことを邪魔していたまやかしは弾けて消滅した。
 驚いたのは赤毛の馬の背中に乗っていた何かだった。いきなり自分を隠していたまやかしが消え去ってしまったのだから。
 反り返った鼻、大きな口、やぶにらみの目。人間の手くらいの大きさの妖精は、ぎょっとしてエリーゼを振り返った。
「ピクシー…」
 エリーゼのぽつりとした呟きを聞き取ったのは妖精だけだった。妖精はあたふたと赤毛の馬の鬣を引っ張る。すると馬は前足をあげて嘶くと突然駆け出した。
 馬の嘶きに驚いたミハエルたちが見た時には、すでに赤毛の馬はその場にいなかった。すごい速さで森へと駆けて行ったのだ。
「そういうこと…」
 エリーゼは手に持っていた手綱を握りしめ、乗っていた馬の胴を大腿部で締め付ける。馬はエリーゼの意図を明確に汲み取り走り出した。
「エリーゼ?!」
 小さくなっていく赤毛の馬を追いかけるように飛び出していったエリーゼにミハエルが驚きの声を上げる。
 エリーゼは首を傾けて顔だけ振り返り声を張り上げた。
「大丈夫です、すぐにもどりますから!」
 後はもう振り返ることなく、エリーゼは赤毛の馬を追うことに専念した。
 パルティアの馬というのはただの誇張ではないことをエリーゼは知った。
 前を走る赤毛の馬の早い事早い事、全く追いつけない。
 かろうじて一定の距離を保ったまま後ろについているが、このままいけば持久力で負けることはわかっていた。
 自分の乗っている馬の様子をうかがいながら、さて、どうしようかとエリーゼは考える。
 借り物の馬を壊すほど乗り回すわけにはいかない。しかし、このままではいつまでたっても赤毛の馬には追いつけない。
 エリーゼはゆっくりと感覚を研ぎ澄ませた。
 自分の心臓の音、耳のすぐそばを切っていく風、通り過ぎていく景色、その全ての間をするりと縫うように聞こえてくる微かなさざめきを聞き取ると、エリーゼは空気に自分の声を乗せた。
「私の声が聞こえますか?」
 ざわっと森の空気が揺れた。
「私の声が聞こえるならば、私に力を貸してくれませんか?」
 密やかなざわめきが何度も何度も波のようにこちらに寄り添っては去っていくが、エリーゼは真正面をむいたまま、赤毛の馬だけを見つめる。
 耳のすぐ側で小さな囁きが聞こえた。
〈―――手伝うって何を…?〉
「あの馬を止めたいの」
 しばらく沈黙が続き、クスクスという笑い声が返ってくる。
〈どうやって?〉
「先回りしてあの馬を操ってるピクシーを馬の背中から落としてくれませんか?」
〈…いいよ…〉
 風を切る音が耳を掠めていった。
 前方で、ぎゃっという短い悲鳴が聞こえた。赤毛の馬が失速したのを見ないうちにエリーゼは一気に速度をあげてみるみるうちに距離を詰める。
 赤毛の馬と並ぶと、巧みに馬を操ってぴったりと赤毛の馬の横に張り付く。エリーゼは手綱を放して馬上で体勢を整えた。赤毛の馬と瞳があった瞬間を見計らい、エリーゼは跳んだ。
 がばっと背中に張り付いてきたエリーゼに赤毛の馬は驚き、苛立ち、嘶いた。
 なんとかして背中の荷物を振り落とそうと暴れるが、エリーゼも必死にしがみついて離れない。鬣を握りしめ、太ももで馬の胴体をしたたか締め付けエリーゼは宥めにかかった。
 少々時間はかかったものの、赤毛の馬の興奮を静めたエリーゼは背中に乗ったまま長い首を何度も撫でる。
 そして緩やかな速度で馬を走らせながら、先程まで乗っていた馬を放した場所まで戻れば、ピクシーは地面に転がっていた。
 両手足をばたばたと必死に動かしている。まるで、見えない何かによって地面にぎゅうぎゅう押しつけられているようだ。
 エリーゼが騎乗していた馬は、どうしていいのかわからずにその付近をおろおろとうろついていた。
 それでも逃げていかないのはよく調教されている証拠だろう。戻ってきたエリーゼの姿を確認すると近寄って来た。
 赤毛の馬の背中から下りると、近寄って来た馬の首を撫でて落ち着かせる。そして二頭の馬をその場に残し、ピクシーへと近づく。
「もう放してあげて」
 エリーゼの言葉にピクシ―を締め付けていた呪縛は解けた。
 ふわりと風がエリーゼに巻きつく。
 森の中を疾走していた時に帽子を落としてしまったため、背中へと垂れている金の髪がゆらゆら揺れる。
 エリーゼの頬を愛おしそうに風が一撫でして、金の髪をまとめていた赤いリボンがするりとほどけた。
〈――代償に、貰っていくよ…〉
 鈴を転がすような軽やかな笑い声とともに風が空へと巻きあがり、それに合わせてくるくると赤いリボンが舞う。
 楽しそうな笑い声を残し、風が去っていったのを見届けてエリーゼは腰に手を当ててピクシ―を見下ろした。
 エリーゼを視界でとらえるとピクシーはわっと喚いた。
「なんてことするんだい! あぶないじゃないかっ」
「それはこっちの台詞よ。悪戯な小妖精さん。ただでさえ気性の荒い馬をあんなに目立つように人間の前で乗りまわすなんて何を考えてるの?」
 うっと言葉に詰まったピクシ―は大きな目を忙しなくきょどきょどさせた。
 妖精には性格の悪い者や善い者からさまざまな種族が存在するが、小妖精ピクシーは、そんな妖精たちの様々な特徴を合わせたもったワイルドカードのような妖精だ。
 野原で人を惑わせたり、人家に忍び込んで突然蝋燭の火を消して人を驚かせたり、挙句、人間の子を盗んだりと、とんでもない悪戯をすることもあれば、まるで座敷童子ブラウニーのように夜中に民家に忍び込み家事を手伝ったりすることもある。
 ただ、ピクシ―には変わった性癖がある。真夜中に馬を盗み、輪を描くように乗り回すのだ。…ただし、今回の場合は“ガリトラップ”と呼ばれるフェアリー・リングが放牧地には見当たらなかったので、このピクシーは赤毛の馬を乗りこなす事が出来なかったようだ。
 少し乗っただけでもわかったが、この赤毛の馬はとても気位が高く、気性が荒々しい。ピクシ―に対して激しく抵抗したに違いない。普通の馬はこうはいかないのだが…強い馬だ。
「どうしてこんなことを?」
 ピクシーは着ている緑色の服の裾を引っ張りもじもじと小さな身体を動かした。
「おいらはただこの馬なら帰れると思って…」
「…帰れる?」
「人間たちの話を聞いたんだ。この馬はすごく速く走れるんだろ? おいらはただ家に帰りたいだけなんだ、だから…」
「もしかして…あなた、家に帰れなくなったの?」
 ピクシーは肩をがっくりと落とした。
 ピクシーは大抵、岩の中に集団で住んでいる。
 集団で暮らす他の妖精たちと同様に歌も踊りも大好きで、基本的に陽気な妖精なのだ。
 月の明るい夜には外へ出てきて王を中心にしてその日に何をするのか話し合う。それから燈心草に乗って遠い場所まで空を飛んで出掛けて行くのだ。
「燈心草には乗れないの?」
「行きはみんなと一緒に来た。おいらはまだ長い距離は飛べない。でも何度か試してここまで来たんだ」
 そしてここまで乗ってきた燈心草は既にぼろぼろになってしまったのだという。
「あの日はそれはそれは月の美しい晩だった…」
 みんな久しぶりの遠出に浮かれていた。空を飛び、ぐんぐん進み、辿り着いた先で輪を描いて踊り歌い。周りが騒いでいるうちに好奇心に駆られて人の家へと忍び込み、そこにあった酒を拝借した。そして酔っ払っていつの間にか眠り込んでしまい気がついた時には夜が明けていた。慌てて仲間の元へ戻ってみれば、そこには誰もいなかったのだという。
 話を聞いていたエリーゼは額に手を当てて嘆息した。
「それでこの馬で帰ろうと思ったのね…」
 帰るに帰れなくなったピクシーは人間たちの話を聞いて、足の速い馬を盗もうとしたが、当の馬は普通の馬とは違い猛烈に抵抗したわけだ。
 エリーゼは苦笑した。
「あなたたちの住み家はブロディック地方のゴート・フェルよね? ここからまだ遠いよ」
 ピクシーは零れんばかりに目を見開いて飛びあがった。
「なんでわかったんだ?!」
 ゴート・フェルはヴィルバーン北部にある山の一つだ。他の山と違うのは、ゴート・フェルには大きな岩脈があるということだ。
 エリーゼは悪戯っぽく瞳を輝かせる。
「ピクシー族は昔からゴート・フェルに住み着いてるでしょう?」
「おまえ…、妖精と人間の子フェアリー・テイルなのか?」
「いいえ、私は人間よ」
 ピクシーは疑わしいというようにエリーゼを見た。
「でもおまえ…ただの人間じゃないだろ。人間はおいらたちを見ることはできないんだ」
 人間は妖精を見ることはできない。魔導師にならば可能だが、見えるのは妖精が見せたいと思った姿だけだ。
 妖精の本質を《視る》ことができる人間はいない。
 だが、エリーゼはまやかしを消し去り、ピクシーを見つけた。そのことを指摘しているのだ。


  

Image by tbsf  Designed by paragraph
inserted by FC2 system