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汝、その薔薇の名

9.花嵐 1


 拝啓、風薫る今日この頃、コルスタンから誘拐されて、はやいものでもうマルティウスの季節になりました。
 こちらではなんとか暮らしていますが、心配なのは婆様が小屋を散らかしていないか、育てた薔薇は大丈夫かということばかりです。
 婆様の物臭にはほとほとあきれますが、どうか、どうか人の生活できる空間を少しでもいいから考えて…(以下略)

 ところで先日、隣国のお家騒動(?)に少々巻き込まれました。
 巻き込まれたといっても逃亡中の王子様と一緒に森の中を逃げ回っただけですが、なかなかスリリングな体験でした。
 こちらに来てからコルスタンでは体験できないことばかりで、楽しい反面、少し感傷的な気分になりました。
 これがホームシック(お世話になっている伯爵さんがいうには家庭や故郷などから遠く離れている者がそれらを恋しがる病的状態のことらしいです)というものでしょうか?
 こういった感情は初めてのことでちょっと戸惑ってます。
 人間の世界はいままで知らなかった複雑な感情が湧いたり、危険がいっぱいですが、面白いです。

 そこまで読みかえしていたエリーゼだったが、笑い声に邪魔されて中断した。
 振り向けば、腹を抱えて爆笑する少年がいた。
「ぎゃはは! マジでありえねー! 迷子? 迷子なの? ピクシーが?!」
 うけるー!と身体をくの字にして笑う少年と硬直しているピクシーにエリーゼは嘆息した。
「レイブン…もうそのくらいでいいじゃない」
「だって妖精だぜ? 仲間とはぐれて迷子って…っ」
 ごんっと鈍い音共に頭を抱えて蹲る少年をエリーゼは見下ろした。
 ぷしゅーっと湯気が出る頭部を撫でながら「いてて…」と立ちあがった少年は、再度エリーゼが拳骨をつくってみせるので慌てて真面目な顔になる。
「わかった、わーったって。だからその危ない拳をおさめてくれよ」
 情けなく八の字を描く眉、整った顔立ちと浅黒い肌、くしゃくしゃに外跳ねした黒髪の少年が動くたびに薄絹のゆったりした長衣が揺れる。
「で? 頼みってのはこいつをゴート・フェルまで送ってけばいいのか?」
「うん。お願いできない?」
「べつにかまわないぜ。どうせこれから北に行くついでだし」
 少年は固まったままのピクシーを指でつつきながら快く承諾した。
「ありがとうレイブン」
「よせやい、これぐらいたいしたことねぇし。…それより、なんでこんなとこにいるんだよ。あれか、家出中なのか?」
「ちがう」
 首を傾げる少年にエリーゼはすっぱりと否定を返した。
「誘拐されたの」
「へぇ! そりゃたまげた。お前を誘拐できる人間がいたのかよ!」
「失礼ね」
 ぷりぷり頬を膨らませたエリーゼが「もう一回くらってみる?」と笑顔で拳骨を見せれば「遠慮します」と少年はとたんにしおらしくなる。
「………冗談はさておき、どうして逃げないんだよ? お前ならできるだろ?」
「…うーん。いいの、もう少しここにいる」
「ふーん? 珍しいこともあるんだな」
 納得はしていないだろうが、エリーゼ自身がそう決めている以上は口出すつもりはないようだ。
「婆さんは知ってるのかよ、お前がここにいるってこと」
「わからない。突然だったし…、でも婆様のことだから分かってるんじゃないかな…」
「あの婆さんも曲者だからな」
 うんうんと頷く少年は窓の外を一瞥して「さて・・・そろそろ出発するか」と呟いた。
「もう? 早いね」
「んー…、おまえがいる場所を探すのに手間取って予定より時間さっちまってさ。ほら、もうすぐあれが来そうだし、追いつかれないようにその前には出たいんだよな」
「ああ、もうそんな時期だもんね」
 エリーゼも窓の外を窺い納得する。
 むんずと掴まれやっとピクシーが我に返る。
「じゃいくか」
「ぎゃっ」
「くれぐれも途中で落としたりしないでよ。ちゃんとピクシーを故郷まで連れて行ってあげてね」
「わーってるって。まかしときな」
 窓枠に足をかけた少年だったが、首だけ回して振り返る。
「ここにとどまるなら一つ忠告。ここの人の王サマには気をつけろよ」
「フォルデ王のこと?」
「それそれ、そいつ」
「なんで?」
 少年は瑞々しい新緑色の瞳を細めた。
「血生臭いから」
「簡潔すぎるよ」
「人間にしちゃあ血に塗れすぎてるってことだ。汚れてる。本来ならもうとっくに狂ってる筈なのに、人間にしちゃあよくもってる方だ。よほど精神が図太いんだろが、いずれにしろ先はみえてる」
「先?」
「あとは堕ちるだけってこと」
 エリーゼは顔を顰めた。
「不吉なこと言わないでよ」
「そんなんに近寄るのはおすすめしかねる。ここにいるのはいいが、人間に関わるのはほどほどにしろ。兄貴分の忠告には耳を貸せよ。わかったな?」
 エリーゼは少し思案してから言った。
「忠告痛み入ります。でも、私は私のしたいようにする」
「だーーっ! この頑固娘がっ、どうなってもしらねぇぞ」
「わかってる。自分の行動の責任は持つよ」
「…ったくよー、あの婆にしてこの娘ありかよ…」
 ぶつぶつ言いながらくしゃくしゃの髪をかき混ぜる。
「とにかく気をつけろよ、じゃあまたな」
「ちょっ、ま…」
 手の中で喚くピクシーを無視して少年は窓から外へと跳んだ。
 ぎゃーっというピクシーの叫びに苦笑しながら窓辺へと近寄れば、ばさりという羽音と共に黒く大きな影が視界を横切る。
 舞い上がった漆黒の大烏が悠々と空を旋回し、鉤爪に捕まえられているピクシーがなんとも情けない声をあげている。
 それに手を振れば、答えるように大烏は一鳴きした。
 みるみるうちに遠ざかっていく大烏とピクシーを見送ったエリーゼは部屋を振り返る。
「一気に静かになっちゃった」
 これはこれで寂しいものがある。
 エリーゼは先程まで向かっていた机へと戻り椅子に腰かける。
 机の上に置かれたままの手紙に気がついて「しまった…」と苦笑した。
「手紙預けるの忘れちゃった」
 王都に戻って三日経つ。
 王都郊外に建つファルツ伯爵の館にレイブンが窓から尋ねて来たのはつい先ほどのことだ。
 久しぶりのあいさつを交わし、事情を話してピクシーを紹介し、ついでに手紙を預けようとして取り出したのはいいが、爆笑するレイブンの所為でころっと忘れていた。
 手紙を手にとりながらまあいいか…と思いなおす。
 またレイブンが訪ねてくることもあるだろうし、その時でも遅くはない。
 エリーゼは静かに手紙を元あった場所へと戻していると扉がノックされた。
 答えれば「お茶のお時間です」召使から返事が返ってくる。
 扉を開ければ「本日は庭でお待ちです」と案内される。
 若葉生い茂る緑の庭園に咲き誇る花々。敷地内に所かしこに這う蔦草。さながら野草庭園となっている庭の一画に造られている小さな四阿にこの館の主人が腰を休めていた。
 エリーゼが座れば召使たちがささやかな茶会の用意を整える。
 用意を終えると静かに館の中へと戻っていくのは、フリードリッヒがそう望んでいるからだ。
 日に一度はこうしてフリードリッヒとお茶をするのが習慣となっている。
 時にはミハエルやレディ・アテルダ、マギステル卿も交じえて楽しむが、基本的にエリーゼとフリードリッヒの一対一の方が多い。
「今日はマロウのハーブティーですか?」
「うむ」
 熱湯が注がれた紫がかった透き通ったブルーの飲み物にエリーゼは聞いた。
 フリードリッヒの方に置かれているのはエリーゼのとは違い冷ましてあるのだろう。陶器の中の薄いグリーン色の飲み物にフリードリッヒはレモンをたらす。するとピンクに色が変わった。
 キュラウリとコリアンダーの焼き菓子はできたてで軽い歯ごたえがあった。噛むとミント系の味が口の中に広がる。
「今日もいい天気ですね」
「もうマイウスの月に入ったから気候が安定してきているのだろ」
 さわさわと穏やかな風にエリーゼは満足そうな吐息をつく。
「遠方からの客人はもう帰ったのかね?」
「……気づかれてたんですか?」
「この屋敷のことにはこれでも気を配っているのだ」
 ちびちびとハーブティーを啜りながらフリードリッヒは頷いた。
「この館は代々のファルツ家の当主によって幾重にも術が張り巡らされている。客人はよほどのつわものかね? ぴんぴんしていたようだが」
「すみません。もしかして気を張らせてしまいましたか」
「いや…、悪意や害がない事はわかっていたのでね。特には。ただ気になっただけだ」
「……来ていたのはレイブンなんです。昔馴染みで。今もよくしてくれるんです」
「ほう? レイブン…神鳥かね? 知り合いが幅広いな」
 びくともせずに話を続けるフリードリッヒにエリーゼは嬉しくなった。
「拾ったという妖精でも迎えに来ていたのかね」
「ファルツさんて感が鋭いですよね」
「当りのようだな」
「北に用事があるからゴート・フェルまで送って行ってくれるそうです」
「そうか」
 焼き菓子には手をつけず、ひたすらハーブティーに口をつけていたフリードリッヒだったが、半分飲んだところで陶器を置いた。
「話は変わるがね、エリーゼ」
「はい?」
「そろそろ周りがうるさい。というか鬱陶しい。よって君を社交界に出そうかと考えている」
 亡霊のような表情はあいも変わらずだが、組んだ手の指先がぴくぴくうごいていることから僅かな苛立ちがうかがえる。
「まったく…連中の煩さには遺憾しがたいものがある」
 まるで虫けらを踏みつぶしたいと思っているような感じで呟くフリードリッヒにも動じることなく慣れたものでエリーゼは軽く聞き流す。
「レディ・アテルダはなんと?」
 エリーゼの教育係でもそういったことを一任しているのは厳しくも信頼できるレディ・アテルダだ。
「彼女からは了解を得ているので、後は君の決断次第だ」
「わたしはかまいません」
「そうかね」
「いつ頃お披露目ですか?」
「まだ決めてはいないが…」
 フリードリッヒは近づいてくる侍従長に気がつき、口を閉じた。
「御話中、失礼いたします」
「どうしたのかね」
「はい。ウィンザー公からの使いの方がいらっしゃっておいでです。いかがいたしましょうか?」
「ウィンザー公の?」
「それはそれは…、いったいどんな御用だろうね」
 やれやれというようにフリードリッヒ立ち上がったが、ぴたりと動きを止めてエリーゼを見た。
「今日話たかったことはそれだけだ。それと……、金で君を買った我輩が言うことではないが、とくに気張る必要はない。場所が変わろうが、あるべき本質とは変わらないものだ。ただ君が君らしくあればいいと我輩は思っている」
 エリーゼは穏やかに笑って頷き、フリードリッヒが侍従長を従えて歩いて行くのを見届けた。
 近々お役目のため出陣する事になるわけだ。
 エリーゼはテーブルに肘を乗せて笑った。
 四阿は何本かの柱とアーチ状の屋根で作られているので、四方が吹き抜けになっている。風が入り込みエリーゼの前髪を悪戯に遊んでいった。
 その風に乗って僅かに甘い香りが運ばれてきた。
 もうすぐ花嵐がやってくる。
 


  

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