フリードリッヒが来訪したその日の夜、王妃の間にもう一人の来訪者がやって来た。
エリーゼは夜着を着て、寝る支度を整えていたところだった。
こんな時間の訪問は本来なら許されない。特にエリーゼは国王の婚約者と言う名目でこの王妃の間に滞在している(させられているともいう)のだ。
だがその訪問者はそれが許される人だった。
国王だ。
エリーゼは頭を抱えたくなった。
か弱い女性への暴挙(倍以上の力で制裁してやったが)や、いくら婚約者(エリーゼの意思は皆無)であっても未婚の女性のもとへ夜間に訪ねてくるとは、国王の思考回路はどうなっているのだと叫びたくなった。
しかし、残念ながらエリーゼに国王を追い出す権限はない。
侍女たちはやって来た国王と入れ替わるように部屋を後にした。
エリーゼは天蓋付きの豪奢な寝台から起き上がり、毛皮仕立てのゆったりとした室内用の上着を肩から羽織った。
文句を言おうと国王を見たのだがその体に片眉を跳上げた。
国王の足は覚束ず、ふらふらしている。仄かに酒の匂いが漂ってきた。
国王の顔は赤くはなっていないが、これは間違いなく酔っている。
エリーゼの国王に対する印象は次第に低くなっていたのだが、さらに地に減り込んだ。
国王はエリーゼの元まで辿り着くと、憂鬱そうに寝台に腰掛けた。
こちらの方が憂鬱ですよと思ったが賢明にもエリーゼは口に出さなかった。
部屋に灯っている蝋燭の明かりがゆらゆら動く。
なんとも居心地の悪い空気が漂い、エリーゼは渋々口を開けた。このままだとお互い何も喋らず夜が明けてしまいそうだったのだ。
「あの、陛下…御用件があるのではないのですか?」
肩を弾ませ国王は勢いよく振り向いた。
「お前の名はエリザヴェータだ」
「は?」
「エリザヴェータ・ド・ローザ・エヴァリン。それがお前に与えられた名だ」
国王は寝台の横に用意されていた果実酒を手に取った。
寝酒用にとエリーゼに用意されたものだが、まったく躊躇がない。注いだ分を一気に飲み干して顔を顰める。
「甘ったるい……。どうしてこう女の飲み物というのは甘いんだ」
舌打ちしながらもまた注ぐ。
この男は一体何しに来たのだろう。エリーゼは本格的に困惑した。
「その名は…」
「神官どもが新たにつけた訳じゃない。元々お前に与えられていたものだ。名付け親はウィリアード一世だ。あの爺から付けられた名なんて俺ならば死んでもごめんだがな!」
「陛下は先王のことが嫌いなんですか?」
「嫌いも好きもない。棺に入った爺――それだけだ」
その割には激しい嫌悪感を漂わせている。
「そういうお前はどうなんだ」
つり上がった眼光に睨まれたがエリーゼは苦笑した。
「さあ…会った事がないので」
「会っている」
国王は果実酒の入った瓶を音を立てて置いた。
「お前はこの王宮に来た事がある」
何故そんなことを断定しているのだと疑問に思った。
表情に出して問いかけたが国王は鼻で笑っただけだ。答えてくれるつもりはないらしい。エリーゼは諦めて肩を竦めた。
「だとしても記憶にないのです。分かりません。王宮など今までまったく無関係でしたので」
国王はむっとしたようにエリーゼを睨みつけ、苛立たしげにグラスに酒を注いだ。
また無言が続いた。
国王が酒を飲む音だけが部屋に響く。
「俺にだって無関係だったさ」
ぼそぼそとした囁きだったのでエリーゼは反応するのが遅れた。
「いや、違うな。俺は生まれた時からあの爺と無関係ではいられなかった。あの爺の所為で俺の人生は何時だって他人に言いようにかき回されていく」
国王は自分の手を睨みつけて、ぎりぎりと歯軋りをした。
「王位を継ぐものがいないから、これ以上の内乱を避けたいからだと?
そんなこと知るものか。邪魔だからと放り出しておいて必要になったら連れ戻す。俺の意見など関係なしに!」
国王は酒を煽った。
「いい加減にしろっ、何度も何度も勝手に決め付けやがって」
国王は苛立たしげに声を荒げた。グラスに罅が入りそうなほど握り締める。
国王フォルデ・レオン・ディカルトの生母は先代国王王妃セフィナ・マクシミリアの奥付きの侍女であることは周知の事実である。
下級貴族の娘で王宮へ奉公に上がっていた折に、先代国王ウィリアード一世の目にとまり寵愛を受けたのだ。
しかし、その寵愛は長くは続かなかった。
身篭ったと分かったとたん王宮を追い出されたのだ。
噂では怒り狂ったセフィナの嫉妬によるものだと言われているが当時の事実を知る者はいない。
「俺の母は先王妃付きの侍女の中では身分は低かったが、その容姿は美しかった。だからなのかウィリアード一世が戯れに手をつけた。だが、身篭ったと分かったとたん王宮を追い出された」
王の子を身ごもったとはいえ認知されたわけでもなく、王宮を追い出された身である。王妃の怒りをかうとわかっていて保護する実家ではなかった。
ただの下級貴族にとって権力者の怒りをかうことほど怖いものはない。
「実家からも見放され行く当てもない身重の女がたどり着く場所なんて決まってる。そのまま野垂れ死ぬか、娼館さ」
エリーゼは、国王を見た。
国王は嘲りの笑みを浮かべていた。
「俺の母の場合は後者だった。娼館で俺を生み、その後食べていく為に娼婦になった。俺は娼館で下働きとしてこき使われた。男でも見目麗しければ、男娼として使われただろうが、その娼館が扱っていたのは女だけだったのが幸運といえば幸運だったぜ。他の娼館に売られるかと思ったが、気がつけば成長期が過ぎてたからな、売り物にならんと判断された」
無言で見つめてくるエリーゼに国王は低く笑った。
「同情なら無用だ。俺にも俺の母にもな」
エリーゼの問いかけるような視線に直ぐには答えず、国王は自分のグラスにやや乱暴に酒を注ぎ足した。
「下働きとはいえある程度の自由は保障されてた。娼館の一階にある飲み食いする店の切り盛りと娼婦たちの世話。娼館に来た客の荒事に対応さえすれば、僅かだが金も貰えた、はっ、楽な仕事だぜ。まったく」
そんなはずなかった。
楽なだけの仕事ではなかったはずだ。しかし、エリーゼは口を挟まなかった。
何を言っても無駄だと分かっていた。経験した事もないエリーゼが何を言っても白々しいだけだ。
「俺の母は、俺以上に自分の人生を謳歌していた。娼婦になってからは特にだ。ウィリアード一世への呪詛は毎日のように言葉にしてたが、それも俺が子供の頃までだ。母は自ら勧んで身体を開き、男を手玉に取るようになった。女ってのはそんなもんさ。俺が十歳になる頃、客の一人に身請されてった。俺を置いてな」
エリーゼが瞠目すると国王は掠れた声で笑う。
「後妻になる為には瘤付きじゃあ何かと面倒だろう」
「ついて行こうとは思わなかったの」
「はっ、誰が思うか、俺がウィリアード一世の子供だからと煩かった女だぞ。俺はむしろ清々したね」
「………」
「執念深い女だったよ。泥々した醜悪な感情の塊を持った女だ。俺を王宮に連れてけば贅沢な暮らしができると思うような不遜な女でもあった。
だが、どんなに思い描いてもかなわない夢と目先に差し出された男爵夫人の座。あの女がどちらを選ぶかなんてはじめから決まっていたようなものだ」
堪らなくなってエリーゼは、目を伏せた。すると、がしりと肩をつかまれた。
驚いて顔をあげれば、間近に国王の顔があった。
「そらすなよ…」
獣の唸り声のようだった。
「俺から、目をそらすなっ」
藍色の暗い瞳が揺れていた。哀しいぐらいに揺れていた。
それでも涙が出ないと叫んでいた。
「俺が十七になった年、あの女を身請けした男爵からの使者がやって来たが俺は無視した。
そしたら強引に馬車に乗せられてな、でかい屋敷まで引っ張って行かれて勝手に身支度を整えられた。
何のつもりだと言ったら『今日からこちらでお住みください』ときた。馬鹿を言うなと暴れたら容赦なく打たれた。
『貴方様は王族の血をひいてらっしゃるのです。それに相応しい教養を身につけるためです』とぬけぬけとほざきやがった」
国王の手に力がこもり、爪が肩に食い込んだ。
「どうやらあの女がおれの出自を男爵に喋ったらしい。それからは教育という名の地獄だったぜ。
後で分かった事だが、そいつらは宮廷派閥の中でも反リチャード派でな。
俺をいい様に傀儡に仕立てて王座を牛耳ろうとしていた奴らだった。
王族の血でも所詮は認知されていない庶子、暴行など加え放題だっただろうよ」
ぎりぎりと食い込んでくる爪と握力。エリーゼは歯を食いしばりその痛みに耐えた。
「地獄からは思いのほか直ぐに開放された。
リチャード王子は頭の切れる奴だったからな。俺を捕らえていた奴もその仲間も大いに権力を削がれた。
俺は晴れて用無しになったわけだ。馬車に乗せられて元居た街に捨てられたよ。行くあてもないからまた娼館に逆戻り、街の塵溜めで今までどおりの生活さ。
……だがな、俺は受けた侮辱も屈辱も忘れたわけじゃない」
国王の激情が言葉の端からびりびりと伝わってくるようだった。
怒りや義憤といった猛狂う火のような感情が国王の中で渦巻いている。
「俺はリチャード王子が死んだと聞いた時に悟った。王宮からまた使者がやってくるってな。
事実その九年後、ウィリアード一世が死にこのヴィルバーンは混乱状態に陥った。そして内乱が勃発した。
案の定、俺のところに王宮から宰相がじきじきにやってきた」
「王宮に戻ったのね」
「ああ、戻ったとも。貴族どもは嫌そうに庶子の王位継承者に頭を下げて、王族どもは顔を蒼白にしてやがったな。どいつもこいつも間抜け面を晒してた」
国王は強暴な笑いを零した。
「ウィンザー公も?」
「……?」
「ウィンザー公も間抜け面を晒してたの?」
国王はぴたりと口を噤んだ。エリーゼは少しだけ微笑んだ。
それにつられるように視線を彷徨わせ、国王は何かを思い出すようにして言った。
「いや、あいつは何も…ただ俺を見ていただけだ」
自嘲するように言い放つ。
「あいつ以外は全員が俺を見下していた。だがな、それこそ好都合というものだ」
獲物を見定めた鷹のようにぎらぎらと藍色の瞳が光る。
「俺はな、馬鹿どもがおこした内乱に乗じて俺を利用としようとした奴らとその仲間を皆殺しにした」
エリーゼは視線を逸らしはしなかった。鋭い眼光を真直ぐ、正面から見返した。
「それだけじゃない。俺は自分の母親もこの手で殺したんだ」
「…何故?」
国王のぎらぎらとした眼光の中に一瞬痛みにも似た色が奔る。
「………俺が王位の継承権を持った事を嗅ぎつけてきたからさ。俺の前に現れて母親の権利とやらを振りかざしやがった」
国王は笑いながらそう吐き捨てた。国王が泣き出しそうな子供のようでエリーゼは息を呑んだ。
見ている方が苦しくなる…そんな顔をしてなぜ笑えるのだろう?
エリーゼは国王のその言葉に隠匿を嗅ぎ取ったが沈黙を友とすることにした。国王は嘘は言っていない。でも真実を話しているわけではない。
なんとなくそう思った。
しかしあえて問いただすことはやめた。
この国王は傷ついている。そしてこれ以上傷つけることはしたくないと思った。
「だから俺はその女の首を跳斬ってやった」
国王の藍色の瞳は暗かった。
哀しみの沼に落ちてしまったように深く、暗かった。
「誰も彼も俺を踏みつけていきやがる、なら俺にだってその権利があるはずだ。負け犬になるのはごめんだ。泥を啜って生きていくのだって、もう……うんざりだ! どんな事をしても這い上がってやるっ」
そして這い上がってきた。
全ての人間を見下ろせる高みへと。後悔などしてない。
屍で作りあげた道こそが自分だけの道だからだ。
ただ、在りし日の穢れを知らぬ薔薇の君を思い出す時だけ心が痛んだ。どんなに時が流れようともその記憶は国王の頭から消える事はなく。何度も会いたいと願った名も知らぬ薔薇の君の白い手を、もう一度取りたかった。しかし、もうそれも遅い。
黒髪の少年は、国王となり、その手は幾多の血に染まってしまった。
こんな手では、会えたしても薔薇の君に触れられない。
なのに…!
どんな運命の悪戯か国王の前に薔薇の君は姿を現した。
黄金の髪に深紅の瞳、見間違う事の方が困難だ。あの時の薔薇の君だと一目見て気づいた。
戸惑いも嬉しさも混合したが、現実を思い知らされた。
薔薇の君は覚えていない。何も。
まだほんの幼女だったのだから当たり前だ。分かっている、だが心が追いつかなかった。
国王にとっては人生を変えてしまうような運命の出会いだったが、この娘にとっては―…。
膨れ上がる感情の渦を必死で耐える国王の心中をエリーゼは知らない。
黙りこくったままの頗る仏頂面で、国王は膨れ上がる感情の渦を必死で耐える。
国王の藍色の瞳は狂おしい熱に浮かされていた。赤薔薇の庭でエリーゼに向けた熱だ。
そんな熱い視線に戸惑いながらもエリーゼは国王の言葉を心の中で反芻していた。
国王が歩んできた道をとやかく言うことは出来ない。
エリーゼの人生がエリーゼだけのものと同じように、国王の人生は国王だけのものだ。
だが、国王が深く傷ついていることは分かった。
未だに癒えることのない傷を心に負っている。
エリーゼはごく自然に国王の頬に手を伸ばした。少しだけざらついた皮膚は硬かった。
ゆっくりと羽根で撫でるように触れる。
まだ幼かった頃、親というものが何故居ないのかと養い親に食って掛かったことがあった。
相手にもしてもらえずに自分でもどうしようもない行き場のない感情が溢れてきて、隠れて泣いていた事があった。
養い親の前で涙を見せるのは悔しかった。
妖精たちからも隠れていたにもかかわらず、何故かバルトに見つけられた。
バルトは陳腐な慰めの言葉をかける事はせず、ただ不思議そうにエリーゼを見下ろしていた。
妖精なんかにこの気持ちは分かりはしないと、八つ当たり気味に罵倒したにもかかわらずバルトは去らなかった。
その代わり寄り添ったまま、気まぐれにエリーゼの涙に濡れた頬を撫でてくれた。
それがバルトなりの慰め方だったと気づいたのは、自分の感情を制御できるように成長してからだ。
妖精は人間の感情に無心で無頓着だ。しかし、心がないわけではない。
不器用な慰め方でもエリーゼは嬉しかった。
バルトがしてくれたように国王の頬を撫でた。
暗い藍色の瞳をかっと見開いた国王は低い獣の唸り声を閉じた口からあげた。
持っていたグラスを放り出し両手をエリーゼの肩にかけた。
弾力のある羽毛がふんだんに使用された寝台にエリーゼと国王は沈んだ。
床に落ちた硝子細工のグラスが割れて砕ける音が響く。
しがみついてくる国王の頭をゆっくり撫でる。
エリーゼの胸に顔をうずめる国王の震える肩ををなだめるようにさすり、赤ん坊にするように背中を軽くたたく。
そしていつまでもその黒髪を撫で続けた。
どれくらい時間が経っただろう。やがて国王から寝息が聞こえてきた。
その寝息につられるようにエリーゼの瞼も静かに閉じた。
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