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汝、その薔薇の名

10.暴かれし秘密の花園 2


 エリーゼは新たな住まいをゆっくりと円を描くように見渡した。
 豪奢な家具や見るからに重そうな鋳造で作られた置物、風景画が配置されている趣向を凝らした壁紙。
 上流階級の贅沢ぶりを見せつけられているような部屋に放り込まれた当初はエリーゼもおとなしくしていたが、淑やかなふりをするのもそろそろ飽きてきた。
 だが、ファルツ家に比べてさすがに警備が厳しいのでなかなか部屋から出られない。
 監視するように始終部屋に常駐する侍女を追い出し一人になれる時間を作るのにも苦労したぐらいである。
 フリードリッヒの意向により持ち込まれる書物を読むのにも刺繍をちくちく縫うのも飽きた。
 欝憤が溜まっていたエリーゼの機嫌がだんだん悪くなってきたのを察したように侍女がやってきて、客人の来訪を告げる。
 フリードリッヒとフォルデ王以外の来訪は未だ許されていないので、エリーゼは聞きなれない名前に首をかしげた。
 衛兵ががっちり守っている扉から登場したのは豪華な美女だった。
 思わずぽかんとして眺めているエリーゼを目にとめると美女は堂々とした足取りで近づいてきた。
 椅子から立ち上がったエリーゼに美女は妖艶な笑みを浮かべた。
「不都合なお時間にお邪魔してしまいましたかしら?」
 南部訛りのゆったりとした口調だった。エリーゼは突然の訪問者を歓迎の笑みで迎える。
「いいえまったく。むしろ暇すぎて夢魔の訪問を歓迎するところでしたよ」
 驚いたように目を丸くした美女は声をあげて笑いだした。
「あらあらあら、ではわたくし丁度よい時間を選んだようですわね」
「そのようですね」
 エリーゼは侍女にお茶の用意を頼むと目の前の美女に席を勧めた。
 刺繍がふんだんに施された菫色のドレスに真珠の首飾り、大粒の黒真珠の耳飾りを揺らし、孔雀羽根の扇を弄ぶ女性はその衣装もさることながら雰囲気が華やかだった。
 まるで舞踏会の中心でくるくると踊るニンフのようだ。
 用意されたお茶を美女に勧め、退室する侍女たちを見送るとエリーゼは口を開いた。
「それでどういったご用件でしょうか」
「その前に、まずは挨拶をさせてくださいなプリンセス」
「その呼び方は好きではないので、どうぞエリーゼと呼んでください」
「ふふ…聞いていた通り面白い方。わかりましたわエリーゼ。でも人前ではそれなりに建前が必要ですから敬称はつけさせていただきますわ。先ほども名乗りましたけれど、わたくしの名はドロテア・ドゥ・ザクセンと申します。お見知りおきを」
「聞いていた…?」
「ファルツ伯とは親しくさせていただいておりますの」
 魅惑的な唇をきゅっとあげて意味深な笑みを浮かべるドロテアをじっと見つめるとエリーゼは頷いた。
「伯爵の意向でここへ?」
「敏い方は好きよ」
「いったい何故?」
「貴女が王女としてお披露目される舞踏会が十日後にあることはご存じ?」
「今朝方に侍女頭から聞きました」
「伯爵は貴女に宮廷の作法を学んでほしいと考えているようですわ」
「それは表向きの理由ですね」
 ドロテアはにんまりと笑った。
「その通り。実際は宮廷の人間関係や政治的勢力と派閥に関しての知識をお望みのようね」
「貴女がそれに詳しいのですか」
「意外かしら?」
「気を悪くしないでくださいね。正直にいえば…そうです。何故なら、貴女はサキュバスですよね」
 扇で口元を隠し細めた眼でエリーゼを鋭く睨むが、効果がないと知るとドロテアは扇をひらひらさせた。
「本当に鋭い方」
 じろじろとエリーゼを観察する。
「それも心眼ゆえかしら」
「サキュバスは夢魔の一種です。どうやって昼間に活動を?」
 その問いには答えずドロテアは逆に聞き返した。
「気の利いた言い回しをする方だと思ったのよ。わたくしを見た時には気がついて・・・?」
「はい」
「だから驚いて間抜けな顔をしていたのね」
 事実だ。一般的に夢魔と呼ばれる妖精の活動時間は月の女神の力が満ちる夜である。太陽の神の力が満ちる昼間を夢魔は嫌っている。こうして昼間に実体を保ちながら歩き回っている夢魔がいるとは思わなかった。しかも、ここは一国の王宮である。
 驚きも倍増だ。
「先ほどの質問の答えですけれど、わたくしはファルツ伯と一種の契約をしておりますの。その契約が楔となりわたくしはこうして実体をもちながら昼間に活動できますのよ」
 思案深げに黙り込んだエリーゼにドロテアは嘆息した。
「これは伯爵のごく極めて私的な問題ですわ」
「踏み込むべき境界は心得ているつもりです。けれど一つ聞きたい。貴女は伯爵の精気を吸収しているのですか?」
 力のこもった眼力に見据えられ、ぎょと目を見開いたドロテアは声をあげて立ち上がった。
「おやめ!」
 困惑するエリーゼから顔をそむけ、ドロテアは震える手で扇を大きく振った。
「その力を使うのはおよしなさいな、視線をわたくしからお外し!」
 言われたとおりに床へと視線を下げれば、上からほっとしたようなと息が漏れた。
「心眼がこれほどとはね…。聞きしに勝るとはこのことよ。これが無意識だから余計に恐ろしいわ」
「この眼のことを何か知っているのですか?」
「……伯爵に聞けばいいでしょう」
 思わず顔を上げたエリーゼにドロテアはひっと引き攣った声を上げた。
「伯爵はこの力のことを知らないと言っていました。なので調べてくれているはずです。何かわかったのでしょうか?」
 後退るように身構えたドロテアは恐ろしいほどの威圧感と吸引力が消えていることに気がついて肩の力を抜いた。
 妖精であるドロテアを強制的に従えることのできる力だ。
 ドロテアはファルツ伯爵と契約している為に辛うじて抗うことができたが、もう少しで屈するところだった。
「どうやら貴女の力は不安定のようね」
 もし、エリーゼがこの力を自在に操ることができるようになったならば、この世に存在する全ての妖精はこの少女に膝をつき、首を垂れることになるだろう。
 それがどういうことを意味するのか、エリーゼは知らない。
 ファルツ伯爵が話していないのならば当然のことだ。だが、無知は時に恐ろしい牙をむくこともある。
 乱れた呼吸を直すとドロテアは背筋を伸ばしてエリーゼを見下ろした。
「わたくしは契約の代償として伯爵から一定の精気を分けていただいています。それは事実ですわ。でもそうしないと伯爵の魔力は強すぎて制御がきかなくなるからですの」
 エリーゼは納得したようにうなずく。
「それから貴女の心眼のことは、やはり伯爵にお聞きなさい。あの方は知っていますわ。それがなんなのか」
 目を見開くエリーゼに背を向けてドロテアは扉に向かう。
「今日は虚が削がれました。お勉強は明日から始めますわ」
 扉から出る前にちらりと振り向くとドロテアは呟いた。
「伯爵はあなたが思っている以上の曲者でしてよ」
 ドロテアは廊下へと姿を消し、静かに扉は閉じた。


 どれくらい眠っていたのだろう。たぶん、三、四時間というところだろう。覚醒していく意識と共にゆっくりと目をあけると、ランプがほんのりと灯ったまま部屋は柔らかな明かりに包まれていた。
 窓の外は夜の闇に覆われている。
 眠気の残る頭で今日はあの人はこなかったのだなと考えた。
 わずかに身をずらすと、絨毯に映る寝台の影がゆらりとさざめいた。
 エリーゼは薄目をこすり身をそろそろと起こした。
 そして寝台の脇に見守るようにひっそりと立って、こちらを見下ろしている影に言った。
「こんばんは」
 湧き上がる泉の噴水のように小波うった影がゆっくりとお辞儀をした。
「よくここに入れ込めたね」
〈―…我ハ貴女ノ影ニ潜ンデイルノデ結界ノ影響ハ受ケマセン…―〉
 王宮には何百年間という年月を経て増築され、強度を増したすごい結界が張り巡らされていることにエリーゼも気が付いていた。
 陰の力が満ちている時間帯とはいえ、ありとあらゆる魔導的要素から国王を守るための防衛機能が働いている結界を乗り越えて侵入することは不可能である。
 だが、もともとエリーゼの影に仕込まれていたのならば話は別だ。
 おそらくフリードリッヒの発案だろう。エリーゼの魔力に隠れ影に擬態している限りシャドウが活動することは可能である。
 ただし、一定の距離から離れることはできない。離れたら最後、この城を守る王国付き魔導師に見つかり排除されてしまうだろう。
「ずっとそばにいたの?」
〈―…主ノ命ニヨリ貴女ヲオ守リシマス…―〉
「ありがとう」
 エリーゼは笑った。
 相変わらず黒いフードを深かくかぶっているのでシャドウの顔は見えない。わずかにのぞく口元は一文字に結ばれている。
〈―…夢魔ガキテイマシタネ…―〉
「昼間のこと?」
〈―…貴女ノ気ガ少々乱レテイマス…―〉
「それで心配して出てきてくれたの?」
〈―…貴女ノ不安ハ影ヲ通シテ感ジラレマシタ、不安要素ハ危険ニ繋ガルコトモアリマス…―〉
 心配してくれたのだろう。エリーゼは自然と頬が緩んでいた。
「私は大丈夫だよ」
 首を少し傾げてシャドウは口を開いた。
〈―…アノ夢魔ハ、リリン。主ト契約シテイル使役ノ一ツデス。夢魔デアル故、色ヲ好ミ装イハ華美デ尚且ツ性格モ難解デス…―〉
「うーん、真面目なシャドウとはうまが合わなさそうだね」
〈―…我トハ違イアレハ妖精デス、気マグレデ残酷ナコトモ平気デ行イマス。気ヲツケルニコシタコトハナイデショウ…―〉
「そうだね。でも何故、使役されている妖精が王宮にいるんだろう」
〈―…主ガマダ宮廷ニ参内シテイタ頃ニ、トアル領主ニトリ憑イテイタノガアノ夢魔デス…―〉
「そんな前から王宮に…? でも夢魔が結界を越えられたとは思えない。確かにサキュバスは上位の妖精ではあるけれど、こんなに強力な結界にあえて踏み込みたいとは思わないはず」
〈―…当時、アノ夢魔ハ王宮ニ出入リシテイマセンデシタ…―〉
 まさしく。下手をすれば反発を起こして消し飛ばされるかもしれない危険を冒してまで入り込む理由はないはずだ。
〈―…トリ憑イテイタ領主ガ亡キ後、主ガ契約ヲ申シ出タノデス。主ニハ魔力ヲ制御スル楔ト宮廷ノ情報ニ精通スル人物ガ必要デシタ…―〉
「彼女ならどちらもぴったりあてはまるわけね」
 夢魔は餌となる人間を確保するために社交的であるし、昼間の様子から常に話題の中心となり周りからちやほやされるのを好むだろうことは予想がつく。
〈―…ザクセン男爵夫人、ソレガアノ夢魔ノ人間トシテノ名前デス…―〉
 エリーゼもあの後、侍女たちからそれとなく情報を集めてみた。
 ザクセン男爵夫人といえば、宮廷でも相当名の知れた有名人のようだ。
 エリーゼは苦笑した。
「別に彼女のことで悩んでいるわけではないのよ」
〈―…主ハ貴女ノコトヲ好キダト思イマス…―〉
 驚くエリーゼにシャドウは考えながら話すようにゆっくり言葉をつむいだ。
〈―…貴女ト、ミハエル・ロマノフト、クレイグ・マギステル、主ノ許容範囲ニ入ル人間ハ極メテ少ナイ。モシ貴女ニ隠シテイルコトガアルノナラ、ソレハ貴女ヲ思ッテノコトダト我ハ考エマス…―〉
 シャドウが自らの知識を総動員して慰めてくれている。
 そう思うと心が温かくなった。
 この《心眼》のことを相談した時、フリードリッヒは調べてみると言ったのだ。
 それをフリードリッヒが知らないのだと勝手に思い込んだのは自分だ。
 彼は嘘は言っていない。ただ喋らなかっただけだ。
 フリードリッヒのことを疑っているわけではない。
 ただ、何故、話してくれなかったのかと疑問に思う。
 養い親もこの眼のことを知っていたはずだ。魔導師としての実力を知っているだけに、知らなかったなどとは思えない。
 二人が何を知っていて、何を隠しているのか。それがわからないから不安だった。
 けれど、少なくとも心の余裕はもつことができる。
 誰かの優しさに触れることで慰められる。
 これからは、きっとそれが欠かせないものになるだろう。


  

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